あるネット記事で、日本の若者が子供を産まないのは彼らが幼いからだと書いてあった。
つまり自分のことで精いっぱいなのだと。この記事の要旨は、幼くない日本の若者たちが子供を3人くらい産めるように社会制度を整え、優遇する政策を取るべしということなのだと思う。
確かに成人式の報道などを見ていると、そう思われるような気もするが…
あんなごく一部の若者を、日本全体の若者像として捉えることは適切でない。
小学校から高校まで、ひたすら、いい大学に入っていい会社に就職するのが王道コースで、自分が何物で、何を求めていて、どうなりたいかを自身で考える機会というのはあまりない。(今はキャリア教育などもあるのかも?) いずれかの時期でいいから、学生のうちに、自分が何をしたいか、理想の姿を見いだせた人は幸運である。自己確立にかかる時間は人によって異なる。なりたい自己を実現できた、あるいは、実現できそうな見通しがついたとき、人は初めて、子供のことを考えるのではないか。子育ては精神的に成熟して、子供のために一定時間を全て捧げる覚悟がないとできない。自身が満ち足りていなければ、それは不可能だ。そういう段階にまで達する時間がより多くかかるようになったというのは、その通りかもしれない。それが自由の意味であり、重みであり、結果だ。
この記事の背景には、子供を産まないなんてけしからん、という思いが透けて見える、と私には思われる。自分の価値観にそぐわない考えを持つ者を批判しているように見える。結局、どんなに経済状況が苦しくても子供が好きでほしい人は産むんだ、だからそうしない若者は自分のことで手一杯なのだとの主張だが、じゃあ自分のことで手一杯の人たちが無理矢理子供をもって、その家庭は幸せになれるのか?虐待や育児放棄、学校活動への不参加など、親になる覚悟がないように見える人たちもたくさんいる。そうなってしまうのでは。
共働きでないと家計が苦しい、子育てを手伝ってくれる親戚や地域の援助もない、保育園は待機児童が多く入れるかどうかわからない…そんな状況で子供を「産みたくても産めない」人たちは、幼いのではなくむしろ、責任感があると思う。そして論理的だと思う。つまり、「産みたいが産むことを選択しない」。子供が健全に成長できるような環境が整っていないのだから、子供を産んでも安心して子育てできない、だから、子供がほしいという願望はしばらく我慢しよう、という思いがあるはずだ。そんな人たちまで一緒くたに幼いと批判するのはどうなのか? 子供の貧困や貧困家庭の連鎖が報道されている。こどもの6人に1人が貧困ライン以下で暮らしている。(彼らには社会的援助が必要で、そのためにこそ税金を使ってほしい。それはまた別の話題だけど)子供を産み育てるというのは非常に責任が重いことで、経済的にも精神的にも本当に安心してそれができる環境が必要だと思う。子供は親を選べないのだから、人の命が関わるのだから、軽々しくできる決断ではない。そんな重い決断に慎重になっている人たちを幼いとは、決して言えないし、言ったところで何の解決策にもならない。
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