『結婚不要社会』(朝日新書)/山田昌弘
中欧大学山田昌弘先生のサイトhttps://sociology.r.chuo-u.ac.jp/member/detail/79
から:
学部1~2年次で読んでほしい本をあげてください。
アンソニー・ギデンズ『暴走する世界』
見田宗介『社会学入門』
橋爪大三郎(編)『社会学講義』
学部3~4年次で読んでほしい本をあげてください。
ウルリッヒ・ベック『危険社会』
ジグムント・バウマン『リキッド・モダニティ』
大澤真幸『不可能性の時代』
Thoughts and notes of a researcher in plant genetics and nutritional epidemiology in Japan and the U.S. with a wide range of interests - choral activities, photography, nature, travel, and drawing. L'épanouissement personnel means personal development and fulfillment. Still in the middle of it, enjoying the process. 農学部、酒類企業研究員を経て、米国ミシガン州立大学で博士過程を卒業後、植物遺伝学と食物疫学の研究に片足ずつつっこんでいます。趣味の合唱、自然観察、旅行、写真、絵描き、国際交流など、いろんな記録です。L'épanouissement personnelは自己研鑽、実現というような意味です。生涯に渡って一緒に旅する人生のテーマ。
アンソニー・ギデンズ『暴走する世界』
見田宗介『社会学入門』
橋爪大三郎(編)『社会学講義』
ウルリッヒ・ベック『危険社会』
ジグムント・バウマン『リキッド・モダニティ』
大澤真幸『不可能性の時代』
お気に入りのルーズリーフ的なものを探しているがなかなか見つからない…。
書くときに手にリングが当たらない、
必要なページだけ別に保存したり、アーカイブせず取っておく
保管して読み返しやすい
(冊数が多いと全部見返すのが面倒)
でも薄い方が持ち運びやすい(そうなると冊数が増える)
普通の綴じるノートだと
書くときにリングが当たらないのはよい
必要なページだけ別に残すには破り取ってノリ貼りしないといけない(見た目が悪い)
薄い方が持ち運びには良いがアーカイブがしにくい
ってのが一番ネック。となるとルーズリーフタイプがいい。
ページ管理が自由自在。
ルーズリーフで、手に当たらないものが一番。
タイトル通りなんですが…。
秋晴れで天気も最高。霊験あらたかな山の息吹を感じられてよかったー!
アジア文化を研究しているアメリカ人の友人に誘われて、能を初めて見てきました!
その友人はアジア研究歴が長く、日本にいた時には能楽クラブにも所属していたらしい。今回、彼を含めた書き物会のメンバーでの観劇が実現しました!
能について調べると、
「小道具やセリフが限られているため、聴衆の想像力にゆだねる部分も多く、観客と一緒に作り上げていく物語」
のようなことが書かれていた。
な、なるほど…。
初心者キラーとも言われる能。ちょっと予習をしていきました。その友人も、「楽しむコツは、物語の顛末をあらかじめ読んでおくことだよ」と言っていた。ネタバレOKなんですね。
能楽舞台にいる人は役者さんだけではない。
地謡(じうたい)は、ナレーション的な役割。複数人が合唱している。
囃子方(はやしかた)は、笛や鼓(つづみ)などで雅楽を奏でる。掛け声でリズムを取る人も。
後見(こうけん)は、舞台の後方に座って、役者に万一のことがあったら代わりを務め、役者の衣装を整えたりもする。
古い伝統芸能というだけあって、建物や衣装、所作、人々の役割までそれぞれ意味があるのだなぁ。
ロームシアター京都で、10時開場の5分前に着くと、ずらーーっと大行列だったので驚いた。年配の人が多いのだろうかと勝手に想像していたけれど、若い人もかなり多く、老若男女が並んでいた。8割がた日本人ぽかったけど、2割くらいは外国人の方々。並んでいる全員に、「なぜ能を見ようと思ったのですか? 能歴は長いんですか?」などとインタビューしたくなった。
早く着いた友達の一人が4人分、いい席を取ってくれていたのでとてもありがたかった…。開場前から並ばないといけないとは、コアなファンがいるんですね。
ロームシアターのサウスホールに、木の床を敷き詰めた即席の能舞台が準備されていた。ちゃんと柱も、背が低いながらも立っていた(3本だけど…)。能舞台の四方には4本の柱がつきものなのだが、不運な席に当たると、「柱が邪魔で一番いいところが見えない(泣)」などということもあるらしい。なので、柱の背が低くて良かった。

私たちが観たのは
半能「高砂」
狂言「寝音曲」
能「井筒」。
「半能」とは、本来もっと長い能を、半分くらいの長さにしたもの。
能「高砂」の、後半の見せ場のところだけにしたもののようだ。
住吉明神が縁起の良い舞を舞う場面だった。雅楽、地謡、舞が混然一体となって、独特の神秘的な世界を作り出す。
舞の振り付けで「ドン!」と足音を鳴らす場面もあり、雅楽とともに響き渡ってものすごく厳かだった。
人間ではなく神が舞っているという場面だけあって、観ているこっちがゾーンに入りそうだった。
衣装もすごく美しい。ラメとか金属のきらめきではないのだが、目の細かい絹か何かの、艶やかな美しさだった…。
一言でストーリーを説明するのが難しいのだが、謡(うたい)の上手い家臣が、主人に「謡って見せよ」と言われたが、毎回頼まれても面倒なので、「女どもの膝枕でないと歌えませぬ」と断ろうとしたところ、「ではワシの膝で謡うがよい」と言われ、主人の膝枕で謡うことになった話。(主人のその発想もおもろいな…)
喜劇で、役者の表情も豊か、動きもダイナミックで非常に面白い。あちこちで笑い声が漏れていた。セリフも能に比べると聞き取りやすい。アメリカ人の友人も笑っていて、後で聞いたら「ほぼ聞き取れた」そう。聞き取れなくても、ストーリーを予習していれば、役者の表情や演技を見ているだけでも面白いと思う。
狂言は、能をもとにした喜劇で、能をしっかりマスターした役者が敢えてそれを崩すから面白いのだそう。
小道具も最小限なのに、動きとセリフだけで魅せる伝統芸能があるとはー。全く知らない世界だったけどすごく楽しかった。
1時間20分の長編。これは幻想的だった…。夢の話が出てくるから、「夢幻能」と言われるらしい。世阿弥が「最高傑作だ」と自画自賛した作品らしい。
旅をしている僧が、ある寺に立ち寄ると、その寺は在原業平(プレイボーイで知られる…)の墓があるお寺だった。一人の女性が「近所に住んでいますから」とその墓に花を手向けている。
その晩、寺に泊まった僧は夢を見る。端折ると、その女は実は在原業平の幼馴染で、小さい頃は一緒に遊び、それから和歌を交換(今でいう口説いたりとかデートしたりとかにあたる)するようになって、親交を深め夫婦になるが、業平が先に亡くなってしまった。なので女は墓参りに行っている。ただ、その女も幽霊だった説…。
僧が夢で見た彼女は、亡き夫(業平)の冠、直衣を着けて彼を偲んで舞を舞う。幼馴染だった彼と背比べをして遊んだ井戸。それを今、彼の衣装を着てのぞき込むと、井戸の水に彼の姿が見える…。切ないクライマックスの場面。
「自分の姿が映っていると自分でも分かっているのに、それでも彼の姿が見えて懐かしい」のような。
動きと雰囲気だけで、その感情がしっかりと伝わってきた。計ったように鳴り止む音楽も、このシーンを際立たせる。
井戸にかかっているすすきをバッ!と払って、井戸の中をのぞき込むときの一瞬は鳥肌ものだった。観客の想像力に任せる部分があるからこそ、ありありと物語が広がった。
チラシ↓に載っている、まさにこの場面。

この能を見て半月以上たったが、今も私の記憶に鮮明に残っている。
それくらい、非日常的で充実した体験だった。
正直、セリフもよく分からないし退屈かなと思っていたけどとんでもなかった。何というか、静かで洗練されていて、だからこそ鮮烈な印象を残す。
ミュージカルみたいに小道具大道具にあふれ、照明ギラギラ、歌とセリフが飛び交うような舞台とは対極にある、引き算の美学。そんな世界だった。
情報にあふれかえる現代の生活に、何か重要な示唆をもらった気がする。
また友達と観に行きたい。
絵日記も描いたので貼っときます。
大阪でフェルメール展が開催されていたけれど、運営があまりよくないらしく、評判がよくなかったため見送りました…
代わりに図書館でふと巡り合えたのがこの本。 まさに運命だった。
オランダの美術館、チーズ、ニシンなど名産を売っているお店、フェルメールが描いた風景など、読みごたえがあった。
オランダ人はプロテスタントが多いので、質素倹約、食も簡素に、火を使うのは夕食のみ、のような感じらしい。なので、オランダでグルメを探すのは難しいらしい。ユーロは高いので、旅行者は外食にお金を遣わず、メリハリついていいかもしれない…。
オランダ行きたくなってきた。
カウンセリングのユーザー(クライアント)さんたちは様々な悩みや相談ごとを持ち込む。
それを心理学の観点から見て、聞いて、分析して、「その人の心で何が起こっているか、それは過去のどのような経験からか。そして今後どうすればいいのか」を見極めるのがカウンセラーの仕事。
しかし、2000年代以降は不況期となる。その日食べていくのに困る人も出てくる。そんな中、「いかに充実した自分らしい人生を生きるか」よりも、「いかに生き延びるか」がまず喫緊の問題となった。そんな中で、「いかに生きるか」は「贅沢な悩み」と言われるようになった。
しかし、生存のためのカウンセリングが必要な時代においても、「誰とともに、何をして、何のために生きるか」という、実存に関わる問いは人々の心に引き続き存在している。それを無視し続けると、心と思考と行動がちぐはぐになってしまう。それを扱うのが、冒険としてのカウンセリングである。
冒険としてのカウンセリングが必要な人は、心の一部が麻痺している、と表現されている。表面には、大人としてうまく生活できている自分がいるが、その鎧の下で、傷ついて、未熟なまま時が止まっている子供がいる。それを再起動し、生き直し、新しく始め直すのだ。
「人生の脚本」から抜け出す。
カウンセリングで心理士が仮説を立てて明らかにしていくものの一つに、「人生の脚本」がある。幼少期の経験や思い込みが原因で、人間関係で同じパターンを繰り返してしまう。しかし本人は、その脚本が演じられていることに気づいていない。それくらいに、心に染み付いてしまっているパターンがあるのだという。
人生の脚本、例えば、「母がいつも弟の方をかわいがっていたので、私はオマケのような感覚だった」ことから、思春期や大人になってからも、いつも「誰かのオマケ」のような位置・役割になりがちで、そういった待遇を受け入れてきたという脚本。
そういった自分の思い込み(観念)や人生のパターンに、カウンセラーと話すことで気づいていく。
冒険としてのカウンセリングは、頻繁に長く面談するので、取り繕うことができなくなり、ユーザーの心の子どもの部分が出やすいのだそうだ。その子どもの部分を敢えて表面化し、通常その人が抑えていたり逃避してきたことと向き合って、話をしていく。
波風が起こることもある。
「カウンセリングが効かない」と怒られたりすることもあり(実はそれ自体がそのユーザーの脚本だったりすることが往々にしてある)、それに何とか持ちこたえる。そういう場面では、ユーザーは今まで、人間関係を切るか、切られるかして、同じパターンが繰り返されてきたけれど、カウンセラーはそのパターンを繰り返さない。それにより、その人の中に気づきが生まれる。違うパターンも存在すると認識できる。そして、それらの全てについて、歯に衣着せず話し合う。
感情的に疲弊する仕事だろうから、それをできるのは本当にすごいし、適性がある、のだと思う。
変化と勇気。
何度も何度も会って話をしていく中で、東畑さんは、その人の心に起こる小さな変化に立ち会う。
・引きこもりの人が、友人からの手紙をもらって、返事を書いて投函する。
・ずっと決断できなかった人が、突如、決断する。
・休職中だった人が、同僚の誘いに応じる。
心の変化→感じ方の変化→行動の変化とつながって、その人の人生を変えていく。
そういう変化を起こせるのが、「話を聴いてもらうこと」なのだそう。
話を聴いてもらうこと、遮られず、否定されずに聴いてもらうこと。その時、心のすぐ隣にもう一つの心があることを感じられる。その経験が積み重なった時、心は変化できる。
心の隣に、もう一つの心がある。
いい言葉だ。読むだけで、ぽかぽかと心地よい。
人々の人生が変わり、動き出し、物語の一章が終わり、新たな一章が始まる。カウンセリングは、その場面に立ち会う。
私たち一人ひとりに、人生の物語がある。そして私たちは時折、古い物語(人生の脚本)を捨て、新たな物語を始めていく。そんな変化を可能にするのは「勇気」だ。
勇気は、どうしたって出ない時は出ない。雨が降るのを待つように、自然に勇気が湧いてくるのを待つしか無い。でも、いざ勇気が出て、心に変化が起き、人生に影響を及ぼし始めた時、物語が動き始める。気分が良くなったり、自分らしく生きられたり、人生を好転させたりするようなのだ。
月並みな表現だが、素敵だなあと思う。
いつ湧いてくるか分からない勇気を待ちながら、人生の物語の変化を目の当たりにし、その手助けをする。私はカウンセラーに向いていないと思うけれど、憧れる仕事の一つだ。
自分でも効果を十分に感じているカウンセリング。そんなカウンセリングの仕組みを体系的に、かつ文学的に解説してくれた、この本に出会えて良かった。