10.08.2026

能を初めて見てすごく面白かった。不思議な魅力がありました、予習しててよかった!

アジア文化を研究しているアメリカ人の友人に誘われて、能を初めて見てきました!

その友人はアジア研究歴が長く、日本にいた時には能楽クラブにも所属していたらしい。今回、彼を含めた書き物会のメンバーでの観劇が実現しました!

能楽についての予習

能について調べると、
「小道具やセリフが限られているため、聴衆の想像力にゆだねる部分も多く、観客と一緒に作り上げていく物語」
のようなことが書かれていた。

な、なるほど…。

初心者キラーとも言われる能。ちょっと予習をしていきました。その友人も、「楽しむコツは、物語の顛末をあらかじめ読んでおくことだよ」と言っていた。ネタバレOKなんですね。

能楽舞台にいる人は役者さんだけではない。

地謡(じうたい)は、ナレーション的な役割。複数人が合唱している。
囃子方(はやしかた)は、笛や鼓(つづみ)などで雅楽を奏でる。掛け声でリズムを取る人も。
後見(こうけん)は、舞台の後方に座って、役者に万一のことがあったら代わりを務め、役者の衣装を整えたりもする。

古い伝統芸能というだけあって、建物や衣装、所作、人々の役割までそれぞれ意味があるのだなぁ。

開場前から長蛇の列!

ロームシアター京都で、10時開場の5分前に着くと、ずらーーっと大行列だったので驚いた。年配の人が多いのだろうかと勝手に想像していたけれど、若い人もかなり多く、老若男女が並んでいた。8割がた日本人ぽかったけど、2割くらいは外国人の方々。並んでいる全員に、「なぜ能を見ようと思ったのですか? 能歴は長いんですか?」などとインタビューしたくなった。

早く着いた友達の一人が4人分、いい席を取ってくれていたのでとてもありがたかった…。開場前から並ばないといけないとは、コアなファンがいるんですね。

ロームシアターのサウスホールに、木の床を敷き詰めた即席の能舞台が準備されていた。ちゃんと柱も、背が低いながらも立っていた(3本だけど…)。能舞台の四方には4本の柱がつきものなのだが、不運な席に当たると、「柱が邪魔で一番いいところが見えない(泣)」などということもあるらしい。なので、柱の背が低くて良かった。

画像
ロームシアターに作られた能舞台。

私たちが観たのは
半能「高砂」
狂言「寝音曲」
能「井筒」。

半能「高砂」

「半能」とは、本来もっと長い能を、半分くらいの長さにしたもの。

能「高砂」の、後半の見せ場のところだけにしたもののようだ。

住吉明神が縁起の良い舞を舞う場面だった。雅楽、地謡、舞が混然一体となって、独特の神秘的な世界を作り出す。

舞の振り付けで「ドン!」と足音を鳴らす場面もあり、雅楽とともに響き渡ってものすごく厳かだった。

人間ではなく神が舞っているという場面だけあって、観ているこっちがゾーンに入りそうだった。

衣装もすごく美しい。ラメとか金属のきらめきではないのだが、目の細かい絹か何かの、艶やかな美しさだった…。

狂言「寝音曲」

一言でストーリーを説明するのが難しいのだが、謡(うたい)の上手い家臣が、主人に「謡って見せよ」と言われたが、毎回頼まれても面倒なので、「女どもの膝枕でないと歌えませぬ」と断ろうとしたところ、「ではワシの膝で謡うがよい」と言われ、主人の膝枕で謡うことになった話。(主人のその発想もおもろいな…)

喜劇で、役者の表情も豊か、動きもダイナミックで非常に面白い。あちこちで笑い声が漏れていた。セリフも能に比べると聞き取りやすい。アメリカ人の友人も笑っていて、後で聞いたら「ほぼ聞き取れた」そう。聞き取れなくても、ストーリーを予習していれば、役者の表情や演技を見ているだけでも面白いと思う。

狂言は、能をもとにした喜劇で、能をしっかりマスターした役者が敢えてそれを崩すから面白いのだそう。

小道具も最小限なのに、動きとセリフだけで魅せる伝統芸能があるとはー。全く知らない世界だったけどすごく楽しかった。

能「井筒」

1時間20分の長編。これは幻想的だった…。夢の話が出てくるから、「夢幻能」と言われるらしい。世阿弥が「最高傑作だ」と自画自賛した作品らしい。

旅をしている僧が、ある寺に立ち寄ると、その寺は在原業平(プレイボーイで知られる…)の墓があるお寺だった。一人の女性が「近所に住んでいますから」とその墓に花を手向けている。

その晩、寺に泊まった僧は夢を見る。端折ると、その女は実は在原業平の幼馴染で、小さい頃は一緒に遊び、それから和歌を交換(今でいう口説いたりとかデートしたりとかにあたる)するようになって、親交を深め夫婦になるが、業平が先に亡くなってしまった。なので女は墓参りに行っている。ただ、その女も幽霊だった説…。

僧が夢で見た彼女は、亡き夫(業平)の冠、直衣を着けて彼を偲んで舞を舞う。幼馴染だった彼と背比べをして遊んだ井戸。それを今、彼の衣装を着てのぞき込むと、井戸の水に彼の姿が見える…。切ないクライマックスの場面。

「自分の姿が映っていると自分でも分かっているのに、それでも彼の姿が見えて懐かしい」のような。

動きと雰囲気だけで、その感情がしっかりと伝わってきた。計ったように鳴り止む音楽も、このシーンを際立たせる。

井戸にかかっているすすきをバッ!と払って、井戸の中をのぞき込むときの一瞬は鳥肌ものだった。観客の想像力に任せる部分があるからこそ、ありありと物語が広がった。

チラシ↓に載っている、まさにこの場面。

画像
https://www.kyoto-kanze.jp/show_info/20260820show_meeting/より。同じものを会場で配布していました。

この能を見て半月以上たったが、今も私の記憶に鮮明に残っている。

それくらい、非日常的で充実した体験だった。

正直、セリフもよく分からないし退屈かなと思っていたけどとんでもなかった。何というか、静かで洗練されていて、だからこそ鮮烈な印象を残す。

ミュージカルみたいに小道具大道具にあふれ、照明ギラギラ、歌とセリフが飛び交うような舞台とは対極にある、引き算の美学。そんな世界だった。

情報にあふれかえる現代の生活に、何か重要な示唆をもらった気がする。
また友達と観に行きたい。

絵日記も描いたので貼っときます。


10.02.2026

『フェルメールとオランダの旅』/星野知子

大阪でフェルメール展が開催されていたけれど、運営があまりよくないらしく、評判がよくなかったため見送りました…

代わりに図書館でふと巡り合えたのがこの本。 まさに運命だった。

オランダの美術館、チーズ、ニシンなど名産を売っているお店、フェルメールが描いた風景など、読みごたえがあった。

オランダ人はプロテスタントが多いので、質素倹約、食も簡素に、火を使うのは夕食のみ、のような感じらしい。なので、オランダでグルメを探すのは難しいらしい。ユーロは高いので、旅行者は外食にお金を遣わず、メリハリついていいかもしれない…。

オランダ行きたくなってきた。





10.01.2026

『カウンセリングとは何か』/東畑開人

カウンセリングのユーザー(クライアント)さんたちは様々な悩みや相談ごとを持ち込む。

それを心理学の観点から見て、聞いて、分析して、「その人の心で何が起こっているか、それは過去のどのような経験からか。そして今後どうすればいいのか」を見極めるのがカウンセラーの仕事。


ままならない自己と世界に挟まれ、両者の折衝役となる心。

生き延びるためのカウンセリングと、自分らしく生きるためのカウンセリング。

カウンセリングには二種類ある。
作戦会議としてのカウンセリングと、冒険としてのカウンセリングだ。
作戦会議は、「生き延びる」ため。眠れていない、食べられていない、会社に行けていない、DVを受けている、など、生きるために、生活を回すために即対応しないといけないこと。

それに対し冒険としてのカウンセリングは、「生活は回っているけど、何か自分の人生を生きている感じがしない」「自分はどう生きればいいか」という、生存ではなく実存を問うもの。

カウンセリングと言えば、作戦会議としてのカウンセリングが注目されがちだし、実際に需要も多い。ただ冒険としてのカウンセリングこそ、自分らしい人生を生きるために必要で、自分一人で考えるよりもカウンセラーの伴走があったほうが進みやすいかもしれない。

歴史的には、1970ー1990年代にかけては、冒険としてのカウンセリング、つまり「いかに生きるか」を考えるカウンセリングが、臨床心理学の主流だった。日本が豊かな時代で、衣食住に不自由せず、未来に希望を持てていた人が多かったためだ。河合隼雄やユング心理学の全盛期だった。

しかし、2000年代以降は不況期となる。その日食べていくのに困る人も出てくる。そんな中、「いかに充実した自分らしい人生を生きるか」よりも、「いかに生き延びるか」がまず喫緊の問題となった。そんな中で、「いかに生きるか」は「贅沢な悩み」と言われるようになった。

しかし、生存のためのカウンセリングが必要な時代においても、「誰とともに、何をして、何のために生きるか」という、実存に関わる問いは人々の心に引き続き存在している。それを無視し続けると、心と思考と行動がちぐはぐになってしまう。それを扱うのが、冒険としてのカウンセリングである。

冒険としてのカウンセリングが必要な人は、心の一部が麻痺している、と表現されている。表面には、大人としてうまく生活できている自分がいるが、その鎧の下で、傷ついて、未熟なまま時が止まっている子供がいる。それを再起動し、生き直し、新しく始め直すのだ。

「人生の脚本」から抜け出す。

カウンセリングで心理士が仮説を立てて明らかにしていくものの一つに、「人生の脚本」がある。幼少期の経験や思い込みが原因で、人間関係で同じパターンを繰り返してしまう。しかし本人は、その脚本が演じられていることに気づいていない。それくらいに、心に染み付いてしまっているパターンがあるのだという。

人生の脚本、例えば、「母がいつも弟の方をかわいがっていたので、私はオマケのような感覚だった」ことから、思春期や大人になってからも、いつも「誰かのオマケ」のような位置・役割になりがちで、そういった待遇を受け入れてきたという脚本。

そういった自分の思い込み(観念)や人生のパターンに、カウンセラーと話すことで気づいていく。

冒険としてのカウンセリングは、頻繁に長く面談するので、取り繕うことができなくなり、ユーザーの心の子どもの部分が出やすいのだそうだ。その子どもの部分を敢えて表面化し、通常その人が抑えていたり逃避してきたことと向き合って、話をしていく。

波風が起こることもある。

「カウンセリングが効かない」と怒られたりすることもあり(実はそれ自体がそのユーザーの脚本だったりすることが往々にしてある)、それに何とか持ちこたえる。そういう場面では、ユーザーは今まで、人間関係を切るか、切られるかして、同じパターンが繰り返されてきたけれど、カウンセラーはそのパターンを繰り返さない。それにより、その人の中に気づきが生まれる。違うパターンも存在すると認識できる。そして、それらの全てについて、歯に衣着せず話し合う。

感情的に疲弊する仕事だろうから、それをできるのは本当にすごいし、適性がある、のだと思う。


変化と勇気。

何度も何度も会って話をしていく中で、東畑さんは、その人の心に起こる小さな変化に立ち会う。

・引きこもりの人が、友人からの手紙をもらって、返事を書いて投函する。
・ずっと決断できなかった人が、突如、決断する。
・休職中だった人が、同僚の誘いに応じる。

心の変化→感じ方の変化→行動の変化とつながって、その人の人生を変えていく。

そういう変化を起こせるのが、「話を聴いてもらうこと」なのだそう。

話を聴いてもらうこと、遮られず、否定されずに聴いてもらうこと。その時、心のすぐ隣にもう一つの心があることを感じられる。その経験が積み重なった時、心は変化できる。

心の隣に、もう一つの心がある。

いい言葉だ。読むだけで、ぽかぽかと心地よい。

人々の人生が変わり、動き出し、物語の一章が終わり、新たな一章が始まる。カウンセリングは、その場面に立ち会う。

私たち一人ひとりに、人生の物語がある。そして私たちは時折、古い物語(人生の脚本)を捨て、新たな物語を始めていく。そんな変化を可能にするのは「勇気」だ。

勇気は、どうしたって出ない時は出ない。雨が降るのを待つように、自然に勇気が湧いてくるのを待つしか無い。でも、いざ勇気が出て、心に変化が起き、人生に影響を及ぼし始めた時、物語が動き始める。気分が良くなったり、自分らしく生きられたり、人生を好転させたりするようなのだ。

月並みな表現だが、素敵だなあと思う。

いつ湧いてくるか分からない勇気を待ちながら、人生の物語の変化を目の当たりにし、その手助けをする。私はカウンセラーに向いていないと思うけれど、憧れる仕事の一つだ。

自分でも効果を十分に感じているカウンセリング。そんなカウンセリングの仕組みを体系的に、かつ文学的に解説してくれた、この本に出会えて良かった。




9.30.2026

個人的話題と職業的話題の絶妙バランス!短話完結で読みやすい。『心はどこへ消えた?』/東畑開人

心理士・東畑開人さんの本にハマっている。
こちらは文春に週刊連載されたエッセイで、1話4-5ページで完結しているので非常に読みやすい。

軽妙な筆致で、ユーモアがちりばめられ、かつ、心理士の仕事で垣間見える人々の人生についても考えさせられる、読みだしたらページをめくる手が止まらない一冊。

会わないとネガティブな想像が過剰に大きくなる

連載が始まったのはコロナ禍が始まったばかりの時だったから、リモート期間が明けて大学で再び対面の授業になったとき、憂鬱になるという話も書かれていた。それは、休職した後に職場へ戻る時や、長い間学校を休んでいて久しぶりに行くときも不安になるのと同じで、対面で過ごしていなかった分、相手や社会が自分の想像の中だけでどんどん恐ろしい存在になっていくから、だそう。

他者に触れ合わず自分一人で悶々と考えていると、どうしても悪い方に想像がいきがちだし、他者が自分の悪口を言っているのではないかとか、自分のことを嫌っているのではないかなどと想像する。

でも、実際に行って会ってみると、何事もなかったかのように話せる、というのはよくある。直に会うと、つい平和的な付き合いをしてしまうのが人間だからである。だから、怖くても、不安でも、いや、不安だからこそ、実際に会ってみた方がいい、という時もある。大事なことを伝える時は対面が良いというのももちろんあるし、普段の生活でも、やはり対面やせめて肉声が、「相手も同じ人間である。それほど脅威ではない」と思える上で大事だ。

そういえば、長い間会っていなかった友人に久しぶりに会うときはやや緊張するけど、会ってみたら何事もなく、変わらず楽しい時間を過ごせた、なんてこともよくある。そういう現象を言語化、理由まで説明してもらえてなんか人生の智慧が増えた気がする。

その他にも面白いネタがたくさん

・クリスマス時期のエッセイで「紙を崇めよ」も面白かったな。宗教行事とは全然関係なく、「手書きの手紙を送るのは素晴らしいメッセージとなる、メールでは出ない味わいや真心が伝わる」のような感じで大真面目に「紙」を礼賛している。私も「紙」の力を信奉しているので気持ちはよく分かる。手書きの手紙を送るのも楽しいし、もらう喜びは何者にも代えがたい。

・このエッセイは心理学の研究家の東畑さんが書いたお堅い本というよりも、心理士ならではの高い分析力を自分にも応用して自分の胸中を綴った手記のような感じがする。なので、より個人的な部分が垣間見えたのがまた面白かった。

・心理の大学院で、東畑さん含め大学院生3人もが野球部の補欠だったというお話も面白かった。「心理士はメインプレイヤーではなく、誰かの人生に伴走する存在、まさに補欠魂ではないか」ということだ。確かに!

・何かあると、不安や悪い想像で頭がいっぱいになってそれがぐるぐるする、というのも、心理士さんでもそうなるのかー、じゃあ一般人はそうなっても仕方ないな、と思えるし…。

・でも東畑さんが喫煙者なのは意外だったな。それも大学で「同じサークルのイケメンがカッコよく吸っていたのを見て、俺も煙草を吸えばカッコよくなれるかなと思ったのがきっかけ」だそうで……。なんかイメージががらっと変わった。人間味をふんだんに出しているけども。禁煙して長生きしてほしい。

いろいろな職業人のエッセイ希望!

多分、どんな職業の人でも、こういうエッセイを書いたら面白い読み物になると思う。その職業の人だからこそ分かること、経験できること。そういうものを、いろいろな職業の人に書いてほしい。

というか、ひょっとして豆の研究でもそういうのが書けるのではないだろうか。(野心!) 物語をより面白くするのは人と人との関わりで、モノ相手の仕事である研究職のエッセイが、心理士さんのエッセイほど面白くなる保証はないのだが、それでも、その職業の人の日常はこんな感じで、毎日こんなことを考えている、というような話を書くだけできっと興味深いのではないだろうかと思う。




9.21.2026

『結婚の社会学』/阪井裕一郎

慶応義塾大学の阪井裕一郎先生は家族社会学が専門で、「結婚の常識を疑う」が本書の問題提起。


結婚の常識って時代によって変わってきたことがよくわかる。

なんだかんだ、家父長制の家制度を維持するためという目的が一番大きい。女性は男性の「家に入って」、一番下の地位。昔は「離縁」も自分からはできなかった。でも、男性側の家族から、子供ができないなどの理由で「離縁」されることはあった。不妊の原因は男女ともにありうるのに、なんという不条理。

同棲の普及についても面白かった。同棲と事実婚はほぼ地続き。私のアメリカに住んだ経験でも、パートナー同士で同棲している人たちが本当に多かった。ただ、理由が違うのだそうだ。

・欧米で同棲を選ぶ人たちは、宗教から距離を置きたい、が理由。

・日本で同棲を選ぶ人たちは、苗字を変えたくない、が理由。

日本では結婚する際に、二人のうちどちらかが苗字を相手と同じにしなければならない、という不条理なルールがある。95%のケースで、女性が苗字を変えているそう。古い民法がそのままになっているのだ。誰得?といえば、もちろん男性得だ。政治家の性別割合が、そのままこういう所に反映される。

苗字を変えることによる不都合はたくさんある。自分の慣れ親しんだ苗字が突如使えなくなる。手続きに行くのも面倒くさいし時間がかかる。姓が変わることで、「結婚した」または「離婚した」というプライベートなことが否応なしに職場などで知られることになる。そしてそういった不都合は、二人のうちどちらかだけ(95%のケースで女性)に降りかかる。これを不平等と言わずして何と言うのか。

「夫婦別姓」という言葉を疑ってみる、という章も興味深かった。

事実婚を選ぶ人たちは、何が何でも違う姓にしたいわけではないのだ。自分の苗字を変えたくないという意味での別姓を求めている人が多いのだそう。

つまり、お互い苗字が佐藤なら、お互い佐藤のままでいて、別姓にするためにどちらかが新たな姓を名乗りたい、というわけではない。

「『別』という言葉が抵抗感を引き起こしている気もする」とインタビューに答えた人は語った。確かに。

*           *           *

選択的別姓に関する反対意見への反論も、極めて理路整然としていて面白かった。今度何かの機会に使おう。

(1)夫婦同姓は日本の伝統(?)

・夫婦同姓は明治民法によって成立した。比較的新しい。しかし、歴史認識はある制度を正当化する根拠にはならない。「伝統だからそれが正しい」は理由にならない。

・問題視されているのは、「夫婦同姓を強要する制度」。同姓と別姓のどちらが「正しい」か決めることはできないし、別姓を求める人たちは「正しさ」を主張しているわけではない。(「正義の反対はもう一つの正義」。)ただ、「別姓にすることも、同姓にすることも選べること」を法律婚の枠組みの中で認めるべきだと主張しているだけ。

(2)子どもがかわいそう(?)。親子で姓が違うと子どもの不幸や不利益に繋がるという主張。

・なぜかわいそうなのか。なぜいじめられるのか。いじめが起こるのは、社会が「別姓であることがかわいそう」と決めているからに他ならない。いじめるのが悪いのに、いじめる側の論理を支持するのも不可解。

・離婚率が3割で、その8割超で母親が子供を引き取っている。つまり離婚で子供も苗字を変えることを余儀なくされる。いじめなどに繋がりかねない。子供の福祉を考えるなら、女性ではなく男性が苗字を変えるほうが理にかなっている。

(3)「旧姓の通称使用で事足りている」(?)

・足りていない。半数の日本の企業が認めていない。そもそも、「旧姓の通称使用」は、別姓の選択肢がない日本において、当事者たちが妥協案として勝ち取った権利。それなのに、選択的夫婦別姓に断固反対する人たちが、「通称使用で事足りる」というのは筋が通らない。


そもそも「選択的」なのだから、すべてのカップルに別姓を強制するものではない。同姓にしたい人たちは、同姓にすればいい。

選択的夫婦別姓に反対する人たちは結局、

「今の慣れている制度を変えるのが嫌」

「男性優位の社会が壊れそうで嫌」

「伝統的な家族の価値観(家父長制度、つまり女性が家の中で二番手に置かれている状況)が壊れそうで嫌」

「女性が権利をもっと主張するようになりそうで嫌」

「手続きが煩雑になってシステム更新しないといけないから嫌」

という、現状自分に有意な制度を維持したい、もしくは面倒くさい、っていうそれだけの理由で反対しているのではないか。それによって不都合を被っている人がいることは考えず。

結婚後に姓をどうするかというのは、多くの男性にとって他人事。どちらの姓にするかがくじ引きで決まるとしたら、男性からも「選択的夫婦別姓」の希望が出てくるのではないか、という思考実験も大変面白かった。

欧米では結婚後も姓を変えない人が多い。それが当たり前になれば、同姓を強制する制度にはすごく違和感を感じる。

私たちは、安易に為政者の「これまでと同じ『安心な』政策」に乗らないよう注意しないといけない。

*           *           *

そもそも、人にはケアを必要とする年代があるが、そのケアの役割を一方的に担わされてきたのが女性だった。だから、子供の世話、夫の世話、高齢者の世話で、女性はケアばかりしてきた。キャリアなんて持てなかった。家父長制度は「家」を守り繁栄させていくための制度で、個人の自由や自己実現なんて考えられていなかった。(男性だって、長男なら家督を継ぐことを期待され、職業選択なんてできないし、次男以降は、いくら家督を継ぎたくてもできなかった。)

でも、今はそういう時代ではない。個人の時代だ。それにも良い点と悪い点はある。しかし、今更個人の自由と尊厳を著しく侵害するような時代には戻れない。ケアを親族の女性だけに押し付けてはいけない。そういう前提で、ではどうするかを考えないといけない。

ということで、そもそも結婚の定義を広げてもいいのでは、という話もあった。

例えばアメリカで、60代の仕事はあるが家を失った男性と、80代の、持ち家があるが一人での生活に援助が必要な男性、その二人の友人の利害が一致して、彼らは同性婚の制度を利用して結婚した。配偶者となれば、莫大な相続税無しに、家を譲ることができるからだ。

「同性婚の悪用」などと批判されたらしいが、では男女ならいいのか? 結婚する二人が恋愛関係にないといけない理由は何か? なぜ、ケアし合いながら一緒に生きていこうと決めた二人が、経済的恩恵を受けるために結婚してはいけないのか? そもそも、なぜそういった経済的恩恵が、幸運にもパートナーを見つけた人だけに与えられるのか。いろいろとツッコミどころがある。

結婚という枠組みで、女性に担わせる形で対応していたケアの問題を、社会全体で担う仕組みが必要なのだろう。

これについては エリザベス・ブレイク『最小の結婚』という参考書があるらしいのでぜひとも読んでみたい。


自分が今享受している自由って昔は当たり前じゃなかったんだな。じゃあ、わざわざ自由を制限するような、「家に入ってケアを担う」役割を、やりたかったらすればいいけど、したくないんだったら、しない自由があるんだよな。とかみしめた。


こういう本を読むと、社会学いいな、本格的に学びたいな、と思ったりする。





「alright」でいい。感情ジェットコースターに乗っていない友達の言葉にハッとさせられた話

最近新しい仕事についたシンガポールの友達の、

「It's been five months now, and I find it alright.」(転職して5か月たったけど、特に問題ないね)

という言葉にすごくハッとさせられた。

彼は、「alright」とだけ言っている。大丈夫、問題ない、のような。

「上司が良い人ですごくやりやすい!」とか、

「同僚と仲良くていい感じ」とか、

「社会貢献している感じがしてやりがいを感じる」とか、

そういうことじゃなくて、

「普通に行って仕事できる、問題なし」

のような。

ドライといえばそうだけど、期待が無いので、感情が揺れ動いていない。安定している。ただ仕事して給料をもらえるってだけで良くて、それ以上を特に求めていない。

彼は感情的にめちゃくちゃ安定している人だ。怒っているところも見たことないし、ケンカしたこともない。

ちょっと考えてみると、「上司が良い人で~」っていうのは、ともすれば「この人はこんないいところがある、好き! きっとこんな素敵な人のはずだ、この人のもとで働けたら素晴らしい毎日のはずだ」なんていう期待にも変わりかねない。

そういう風に(勝手に)思って、あとでそうではない場面が出てきたとき、「失望、ショック、そんなことになるとは思わなかった」なんて思ってしまうのではないだろうか。

要するに感情が上がったり下がったり、ジェットコースターなのだ。

これに対して、この友達は最初から期待値を「alright」で設定しているから、無駄に変な期待をしていない。人間にもいろんな面があるということを分かっている。その人の好ましい一面を見つける日もあれば、好ましくない一面を見つける日もある、と分かっているのだと思う(って、これは私の、彼に対する期待かな??)。

一日がつつがなく終わればそれでいい、のような。

仲のいい同僚がいたり、上司が素晴らしい人だったらもちろんありがたいけど、それに自分の感情を賭けていないのだ。


それに思い至ったとき、私は、他人への期待値を上げすぎていたかもなと思った。

些細なことで喜びや悲しみを感じてしまうたちなので、感情曲線はなかなかフラットにずっといられないけれど、少なくとも自作自演のジェットコースターは防げるかもしれない、心がけ次第で。

そう思った。

安定した心を目指そう~~「alright」で全然OKなのだ。



9.12.2026

シチリア料理リカータ

シチリア料理リカータに行ってきました〜

量が謎すぎてどれだけ頼めばいいのか分からず…探り探りで頼みすぎた感があったけど、どれも本当に美味しかった!


スイカ、トマト、モッツアレラチーズのスープ。驚く組み合わせだけれど、意外に美味しい。


マグロのパン粉オーブン焼き。マグロとは思えない、ステーキのような肉厚感とジューシー感。うまし…。魚なのでもたれる感じもなくとてもよき。


シチリアのパン3種盛り。


そしてハーフ前菜。これでハーフ?! 前菜とパンでけっこうお腹いっぱいなんですけど…!


イワシのコンフィとトマト、松の実、レーズンの入ったパスタ。トマトの味が強すぎず、イワシがしっかり主張してくれてて美味しい……!!


そしてポークグリル。豚肉とは思えないほどの赤身肉感。しかも柔らかい。低温調理かな、と話しながら。赤身は焼くとバザバサで硬くなるので、調理方法がいいんだろなーーすごいー


前菜についてきたカリカリスティックと、退店時にチョコレートまでいただいた。シチリアのおおらかさが分かるような感じ〜

決してお安くはないけど、たまには、というか経験としていいのではーと思います!