2.28.2026

サーモンラーメンが最高だった。Enjoyed a French style salmon ramen!


I had salmon ramen noodles the other day made by a French chef. Wasn't the usual ramen at all but it really tasted like a French entree.  

I'dike to try the soupless one next time as this was rich and a bit on the heavy side. 




『アウトプット大全』樺沢紫苑

まあ普通に普通のことが書かれてあった。ただ読むだけじゃなくて、アウトプット(書き出す、説明する)などしないと身につかないもんな。すでに実行しているものがあったのでよしよし!となった。




2.27.2026

反抗期は「健全な成長過程」ではなく「親の未熟さ、至らなさに子どもが気づいてしまったから」説。

会ったら毎回深い話ができるお友達と再び語り合えた!心理学など知識のある人だし、聞き上手だし、ユニークな経験をしているので話もとても面白い。

今回は、反抗期について。

反抗期は「子供が大人になるための健全な成長過程の一つ」と考えられているけれど、それって本当かな?っていう話。

子供が親に反抗するのは、自分を尊重してくれていない、自分の考えや思いを分かってくれないから、という理由ではないか。だとしたら、反抗期が起こるのは親の未熟さのせいで、子供が必ず通らなくてはならない成長過程ではない。という話になった。

私もその友達も表立っての反抗期はなかった。けれどそれは理性や計算で抑えていただけで、心のなかでは反抗していた。だからそれも反抗期だった。だって納得いかないことがあったのだから。でも私たち二人とも、「反抗しても結局今は親の庇護なしには生きられないのだから、反抗しても無駄だ・その後困る」という冷静な計算があった。

成熟した親なら、子供の成長過程に合わせて、その主体性を伸ばす接し方をするだろう。子供が独立して自分自身の人生を歩んでいくことを喜んで後押しするだろう。自分のことを理解しようとしてくれて、尊重してくれる親が相手ならば、反抗という真っ向からの対立をすることなく、話し合いで解決できるのではないか。親が自分のやり方を押し通したり、多忙すぎて子供に向き合えなかったら、子供としては「理解されていない、愛されていない、尊重されていない」と感じるだろう。そんな相手に従順になれるかと言ったら、子供の情緒ではなれなくても無理はない。それで反抗するのだ。

だから、反抗期を健全なものと捉えてしまうことには危うさがある。親が、子供の反抗を健全で当たり前のことと思うと、自分が未熟なために子供が反抗しているとしてもそれに気づかない。そしてただ応戦したり叱ったりするだけになるのではないか。本質のズレた子育て論になる気がする。

アドラーもフロムも、「愛とは、理解、関心、尊重」と言ってた。まさにそれが思い出される。


2.26.2026

五大力さんの粕汁をいただいた。美味しい…染みる。


聖護院門跡の塔頭寺院、積善院の凖提堂にて、五大力さん、年に一度だけご開帳する日があって(2/23)、山伏の方々が炎を囲んで祈祷してたりした。なかなかの光景だった。で、奉納された野菜と酒粕で、栄養たっぷりの粕汁まで振る舞われ。美味しかったです…!



『愛するということ』エーリッヒ・フロム


改めて読んでみた。
薄い本だけど長い…もっと削れる気がする(と編集者魂が顔を出す)。しかし、資本主義と対比して書かれているのは鋭い視点だし現代にも十分すぎるくらいに通ずるものがある。
 

時間のない人は、最初の章「愛は技術か」と最後の章「愛の修練」だけ読めば事足りるような気もする。その間の章は、フロムの独り言だなーーと思わんでもない。母性、父性が二律背反のように語られていたり、同性愛が病気と語られていたり、「それは受け入れられないな」と思う箇所もある。

フロイトが、すべての行動動機は性欲に結びついている、と考えたことに対して否定したのはお見事というか、違う考え方ができてきてよかった、というか。

時代的・文化的な背景として、「神への愛」がページを割いて語られているのは興味深い。が、同感できるか、自分に関係ある物事として捉えられるかといえば全然なので、この時代自体にさほど興味無ければ寄り道なのかもしれない。

最初の章「愛は技術か」

愛は技術である。なぜなら愛することは自然発生的に生じるものでも、落ちるものでもなくて、自分の意思で能動的に行うものだから。

自分を愛せない人は他者をも愛せない。
ある特定の人だけ愛する、あとの人は愛さない、なんていうこともできない。
愛は全ての対象に向けられるものだからだ。


愛は技術だが、現代(当時も現在も)ではそう思われていない。それには3つの誤解がある。

1.「愛すること」ではなくて「愛されること」の方に主眼を置いている。だから相手に気に入られるように収入を上げたり自分を磨いたりする。
2.愛の問題は「対象」の問題であって「能力」の問題ではないという思い込み。中世では取り決めやしきたりで結婚してから愛が生まれるものと考えられていた。現在は、「愛することは簡単で、その人を愛したいと思えるような人に巡り合うのが難しい」となっている。市場原理に基づき、現代では、自分の能力、年収、将来性、容姿などがひっくるめてパッケージとなり、それを「等価交換」してくれる相手を探す(まさに婚活の「スペック」などその例だ)、生活に根付くその市場原理が愛情関係にも現れている。
3.恋に「落ちる」という最初の体験と「愛する人とともに生きる」という持続的な状態が混同されている。

「愛は人間にとって必要で、孤立の不安から逃れる唯一の方法と言ってもいいのに、現代人はなぜか「愛よりも重要なことはほかにたくさんある」と考えている。成功、名誉、富、権力、これらを達成するためにエネルギーを遣い、愛の修練のための時間もエネルギーも残っていない。「愛は心に『しか』利益を与えてくれず、資本主義社会的な意味での利益はもたらしてくれない」と考えている。」

というのは耳が痛かったな。。。

西洋の近代化(日本でも同じ事が起こっているが)により、あらゆるものが商品になった。人は自分の技能、知力、時間を総合パッケージにして売り出し、賃金と交換するようになった。つまり人間でさえ商品になった。しかし人間をその価値により交換可能な商品としてみなすかぎり本当の愛にはたどりつけない。というようなことが書いてあったのはうなずいた。

また近代化で労働者が生まれたことに関連して、「一日8時間自分のためではない組織の目標に向かって、自分のやり方ではないやり方で仕事をする反動で、人は仕事以外の時間では自分を甘やかそうとする。怠けていたいという言い方がきつければ、「リラックスしたい」である。それは時間も成果も場所もきっちり決められた行動に対しての、反動である」というのも同意である。

本当に仕事は「会社のため」とか言われても自分には響かないし、決まった時間に締め切りに追われながらいろんなことを集中してこなしていかなければならないストレスは大きい。

最後の章「愛の修練」

愛は技術だから学ぶべし、修練すべし、というのがこの本の最終章の論で、修練に必要なのは規律、集中、忍耐、最大の関心である。

規律は疲れていようがやる気がなかろうが同じことをするということ。

集中にはいろいろな面があり、相手の話をよく聞く。相手から逃げずにそばにいる、相手に対して敏感になる、自分自身に対しても敏感になる。

しかし現代社会の仕組み上、規律、集中、忍耐、関心を揺さぶり誘惑するものに満ちている。というのがフロムの指摘。

ただ、技術向上に最大の関心を持てば、規律は自分の意思の表現となり、やることが楽しいと感じ、ついにはやめると物足りなくなる。その展望は勇気づけられる内容だ。



客観的に物事を見るためには理性が必要である。理性を働かせるためには感情面での謙虚さが必要(ナルシシズムの逆)。ナルシシズムとは自分の見方が全て、自分が(色眼鏡を通して)見ている世界が本物の世界だと思い込むこと。

「理にかなった信念」=「根拠のあるヴィジョン」 生産的な分析と思考に基づいた、他のいっさいから独立した確信。科学者がデータを十分にあつめて吟味してその上でたてた仮説。確信。自分の経験や、観察力、判断力、思考力に対する自信に根ざしている。

対して「根拠のない信念」は多数の人々がそう思っているから、とか、道理に適わぬ権威への服従である。

愛の修練に必要なのは「信じる」ことで、他者の核となる部分が「信頼に値する」と信じること。

また、自分自身も信じること。自分が自分であること、自分の感情や意見が多少変わろうとも変化しない芯のようなものがあるという確信が、自分を「信じる」ことにつながる。これがないと他人依存になってしまう。

信念を持つには勇気がいる。勇気とは危険を冒す覚悟のことで、痛みや失望を受け入れる覚悟である。

困難な場面に直面したとき、「自分には起こるはずのない不公平な罰だ」と考えずに、自分に課せられた試練だとして受け止め、これを乗り越えればもっと強くなれると考えるにも、勇気と信念がいる。他の人たちがなんと言おうとも。

「人を愛するということは、何の保証もなしに行動を起こすことである。こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に全身を委ねることである」

た、確かに……。まだその段階にない人(心のなかに芽生えるかもしれない愛を認識し返すことができない人)もたくさんいるかと思うので、現実的に考えると「人選」が非常に大事な気はするが…。その思考自体が、「最初の章で紹介されていた誤解2.愛の問題は「対象」の問題であって「能力」の問題ではないという思い込み」なんだろうけれど…。

愛の修練に関して大切なのは「能動性」である。自分から行動を起こすこと。

「公平さ」は資本主義社会が倫理に与えたもっとも大きな影響だった。資本主義社会以前は、者の交換は、権力、伝統、愛、友情にもとづいていた。(それはつまり、権力者による民衆の搾取という形も含むと思うのだが。。。)それに対し資本主義社会では「市場のルールに則った等価交換」、「あなたがくれる分だけ私もあげる」。

愛は必ずしもそういうことではない。愛は相手に責任を感じ、相手と一体であると感じること。公平さは、相手と隔絶しており、責任も一体感も感じていない(愛と公平の違い)。

現代社会は大企業の経営者と職業的政治家によって運営されている。ひとびとは生産し消費するためだけに生きていて、自分の中にある極めて人間的な資質や社会的役割に対する究極的な関心を持っていない。資本主義と愛は両立しない。したがって、人間はほんとうは愛したいと思っているならば、社会の仕組みと合致していない。よって愛が社会的な現象になるためには社会構造が変わらなければならない(『正気の社会』において詳しく論じられている)。しかし資本主義社会も複雑で、非同調や個人の裁量を許容していることも確かである。愛こそが、いかに生きるべきかという問題に対する唯一の理にかなった応えである。

と締めくくられている。頷くことの多かった書でした。







2.24.2026

杉本家住宅を見に行ってきた!

綾小路通にある、江戸時代から10代続く豪商の家、「杉本家住宅」に行ってみた。月に何度かしか公開していないのでタイミングを見て。

明治3年に建てられたものだそうだ。商家の家はどんなにお金があっても慎ましく華美にしてはいけないという教えがあったそうで、畳の縁は黒、襖の色は白、欄間も派手なものは普段は隠して、ハレの日だけに出す、など。茶室も本格的なものは作らず、廊下を改造してちょこっと。
商売人は茶道に傾倒してはいけないのだそうだ。お金のかかる茶道なんかに興じてないで、本業を頑張りなさいということなのだろうか。

とはいえ、やはり豪商の家で、色や意匠はシンプルだけど材料は当時の最高級品がそろっている。四方柾目の柱があったり壁はすべて左官屋さんの塗り壁だったり、たたみは中央部分に帯状の線が見える(い草の細いところをきめ細かく編んでいる)最高級品だったり、庭のひさしは1本の松の木の梁を渡してあったり。縁側の床も一枚板だ。床の間の段になっているところは黒漆塗で、これも普段は木の覆いをつけてあるけれど冠婚葬祭の時などには出して見えるようにするのだそう。茶室の床の間っぽいところに作られたひょうたん型の壁も見事だった。曲線に塗り壁をする左官屋さんの高い技術がわかるそうな。

間口も、当時許されていた最大の幅だったそうな。大きい家だ。

あと、襖を取り外すと3部屋をつなげることができる。その際、木の敷居はパコッと外すことができて、その分畳をずらすことができる。3部屋が、敷居もなくなって一面畳になり、1つの部屋になるのだそうだ。そんなことをする理由は、冠婚葬祭などで何十人も集まる際、「自分は二の間に通されたな」「自分は三の間に通されたな」とガッカリさせないように、という心配りなのだそうだ。上座下座はあるけれど、一つの部屋にご招待しましたよということか。敷居のうえに座ったら痛いからだろうと思ったけどそういうことじゃないんだなー。深い。

仏間の下には地下室があって、家宝とかをしまっているらしい。昔は本当に家事が怖くて、いったん火事が起こったら大事なものは埋めるか抱えて逃げるかしかなかった。今はそれもあまり変わらないかもな。

京都の街は平安京時代から碁盤の目になっていて、120 m x 120 m の区画と通りからできていた。けど、秀吉が真ん中に1本通りを通して、さらに区画を分けて、長屋を作って人口増に対応せよとの命を下した。つまり2つの120 m x 60 m の区画に分けよということ。でも、杉本家などの豪商の家は力が強かったので「そんな事言われても困りますわ〜」で従わなかった。杉本家やその辺りに住んでいた豪商は自分たちの120 m x 120 m の区画をそのまま守り、正方形の碁盤の目状のままの場所が多いのだそう。その地域はまさしく祇園祭の鉾が建てられる地域で、有力者やお金持ちが多いのだそうで…先祖代々脈々と、いろいろと受け継がれている。

幕府や公家や天皇家にお金を貸したり(たいてい返ってこなかった)、仕入れやさんとして御所に物品を運んだりもした。そんな時には公家の方が和歌を一筆掛け軸に書いて、それを下賜して、「お代として」みたいな感じだったそうな。だから杉本家には菊紋のついた器や、公家からの掛け軸がたくさんある。飢饉が起これば、同じ町内やそれより少し広い地域の住民たちに向けて、杉本家やその他豪商が真っ先に炊き出しを行ったりお金を援助したという。名家だなぁ、というか、貧富の差が物凄いというか。


新婚さん用の部屋(そんな部屋があるのも凄い…)には柔らかい印象となるように鳥さんたちの掛け軸も。



庭に隠し雪隠(トイレ)が。「一応作ってますけど、使ったら二度とお招きしません」という代物らしい。こわ!


狆(イヌ)を歩かせる、「狆引き官女」。変わっているが、昔はこういう人形もあったらしい。

蝙蝠をかたどった欄間の模様で、幸運のモチーフ。

一本の木で庇を支えている。長い木なので高級品だろうな。

手水鉢?のそばにおいてある瓦には「東大寺」と書いてあるそう。「東大寺の瓦、こんな珍しいものは杉本さんが買ってくれるんじゃないか」と持ち込まれ、援助的な形で買ってあげたらしい。

電気もいちはやく引けたんだろうと見える。

おくどさん、昔はこの米の釜が7つあったそう!いかに大所帯の家だったか分かる。


写真取ってないけど、こういう、庭に置かれた平たくて大きい石は高級品であることが多い。杉本家住宅にあったその1つを秀吉が気に入り、「反物3反(?記憶があいまい、、、)で交換してくれ」と言ってきたが断った石があるそうな。ただこの屋敷は明治初期に造られたので、石だけ取っておいた(火事で燃えずにのこった)のか、そういう石が昔はあった、ということなのか…

御殿づくりのお雛様。スケール大きい!こちらにはないけど、御殿の屋根まであるフルセットもあるそうな。とんでもない大きさ&天井高さのある家じゃないと入らない。

いろいろすごかったわ〜

2.21.2026

梅が綺麗である…

けっこう春が近づいてるなぁ〜
まだ寒いけど。日が長くて適度に寒いって最高かもしれない…!