「この国には、英語だけが足りない」
都会でこういう広告を見ると、心がざわざわする。
そうかな?
この国には素晴らしい頭脳があるのに、英語だけが足りず非常に惜しい。
という風に、人々のプライドをくすぐりつつ、英語に関する劣等感だけを際立たせて再確認させるという手法。
実際、英語が必要な人はそこまで日本にいないのではないか、と最近思えてきた。
通訳だって(雇えば)いるわけだし、海外赴任で職場の日本人は自分だけ、といった状況にでもならない限り、英語がなくて困るようなことはない。
とすれば、必要なのにない、というニュアンスのある「足りない」という言葉は適切ではない。
できたら良いな、程度の需要を、いかに「できないとだめですよ!」と発破をかけ、劣等感と焦燥感を持たせ、英語塾の入会書にサインをさせるか。そういった市場な気がする。
それは、スーパーモデルのような体形だったら良いな、とは誰もが思うけれど、実際スーパーモデルの体形でないと仕事上困る人はごく少数であるのと似ている(笑)。
このごろ、英語と日本語が違いすぎて、その背景にある文化まで違いすぎて、何をどうしていいのか、自分の立ち位置をどこにおけばいいのか分からなくなってくる。その混乱をうまく自己消化できる人こそ、国際人ではないか!
思えば、英語とか中国語とかそんなに知らなくても、留学生に好かれ、いつも彼らに囲まれ、溶け込んでいく人はいる。いつも羨望のまなざしで見ていた。聞き上手かつ話上手(ユーモアとかの方が大事だ)であることが大事で、文法が完璧かとか、○○を正しくつづれるかといったこととはまったく無関係だ。それまで培ってきた人間性がものをいう。
「自分の子供が留学したいと言ったら、寂しいですか、嬉しいですか」
と問いかける広告も。
国際交流は簡単になり、ますます世界は近くになりつつある。(国際線のチケットなんて、5クリックくらいで買えてしまう。あとはその日、空港に行くだけ。)
さて、いろいろな情報や文化や意見や見方が四方八方からやってきて、自分の価値観やプライドを揺さぶってくる中で、自分はどう立っていたら良いのか。波も風もない内海から、突然めまぐるしい外洋に出ていくようなもの? とっくに外海に出慣れていて、船のこぎ方も知っている人たちに、あせる必要はない。まずは波の動きを楽しんで、内海にはなかったものを知る楽しさからでもいいんじゃないかしら…。
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