何が起きてもおかしくないーそんな心構えが本当に必要だなあと実感すると同時に、やはり人間は自然活動に対して極めて無力だと痛感する。そんな思いでいる。
話は飛ぶが、何が起きてもおかしくないというのは海外と仕事をしていると感じることも多い。あちらでは労働力が流動的だし、合理的なので採算が合わないとなれば即人員整理が行われてしまう。その分、自分の「職」を磨いていき、どこでも働けるようになっていくのだが。その点、日本は会社に「就職」するというより「就社」すると言える。終身雇用の代わりに、経理から営業から生産から、何でもしますというわけだ。
そんなわけで、海外の変わりようは目まぐるしい。半年前に日本を訪れて一緒に会議した人が、解雇されてもう全く縁もゆかりもない場所に職場を代わったり、長年取引をしてきて、信頼関係もある営業の方でも、その会社が吸収合併されて解雇されてしまったり、はたまた大学でも、極めて優れた新品種を継続的に開発して業界を牽引してきた大学が、育種事業から撤退すると発表したり。一番当惑しているのは他でもないスタッフ達だった。
この6年間、何度も何度もそんなのを見てきた。またね、と言って見送った人々と、もう関わることがなくなるのは寂しい。もちろん個人的に連絡は取るが、出張で会うことはなく、新しい担当者とまた初めましてからになる。そしてその人も、いつまでいることか…。
それはもう文化の違いだからしょうがない。生産性のためだ。解雇されても、新しい職場が見つかるだけまだ良い。それに私も、解雇がないから、倫理感に欠け人を傷つける従業員をどうにもできないという日本企業の負の部分をいやというほど見ている。
しかし、なんか、何事も永遠には続かないのだなというのをしみじみ感じる。大麦シンポジウムで、参加者が皆知り合い同士で和気藹々とした雰囲気だが、来年はそれが少し変わるかもしれない。人の入れ替わりは確実に起こっている。
だから海外の人は同棲したり、結婚したりが早いのかな、などとも想像する。会社も職も、いつまであるか分からないし、誰がいつどうなるか分からないという不安定要素がある。とすれば、せめて家では安定的な安らぎを得たい、景気が良くなっても悪くなっても関係なく一緒にいてくれる人がほしいと思えるのも納得。(まあ、離婚率も高いのだが…) 彼らは友人との時間も大切にする。仕事やお金抜きでつき合える人々との関係は裏切らない。
話を戻すと、私はオーストラリアの大麦業界が本当に好きで、とても居心地が良くて、ここに所属していたい!と思っているけれど、そんな状態も長くは続かないのかもしれない、その時やる気は出るのか、と想像してしまう。要するに人が主目的ではないのだ、何がやりたいかというのは。この人と仕事がしたい、ではなくて、この仕事をやりたい、と思えなければ。(まあ若しくは、この土地で安定して住めるなら何でもする、か。) 頑張っていれば、助けてくれる人や、一緒に考えてくれる人と出会えるかもしれない。そんな就活本に書いてあるようなことを、再認識している。
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