ジェンダーレスになれるわけじゃないんだ。
すとんとしたダブルジャケットで、上下あったらいいなと思えるものがあったのに、試着してみたら「ボタンの合わせが反対ですよ」と言われた。両側どちらでもボタンをかけられるデザインだったし、特に何も考えず留めただけなのに。 親切心で指摘してくれたんだろうけど。性別役割分業を、押し付けられた気がした。
男性用はこう、女性用はこう、と決められた服を着る以上、その極限二分割を受け入れることになるんだ。なぜボタンの合わせが男女で逆なのかというのは武器を取りやすいとか馬車で風が入らないように?とか諸説あるらしいが、いずれも現代の生活には直接関係ない。 この慣習がこんにちまで生きているのはどうなのか。そういうちょっとしたところが、人々の無意識に、「この世には男か女かしかいない。おまえはそのどちらかなのだ」と植え付けていると思う。
The Curious Cases of Men and Women's Buttons. Atlantic
この記事は合わせの違いを 興味深い過去の遺産みたいに表現しているが、もっと重要な問題のような気がする。
パーカーとか、性別感が出ないアイテムにすべきか。そうすると礼服どうするよ…。ミシガンの合唱団の指揮者の方が、中華系というわけでもないのにチャイナ服を着ていたのはそういうわけか…?
そういえばあの合唱団は黒い衣装であれば何でも良かった。ズボンでも良いし、着たかったらジャケットを着ても良かったし。そして、Christian men という歌詞はちゃんと、 Christian friends と楽譜を書き直すように指示された。今思えばいろんなことに配慮されていた。さすがだな。日本で合唱団に入るとブラウスとロングスカートを着せられるので、それもよく考えたら躊躇する一因だったかもしれない。
ミシガンのFedex で、刈り上げ短髪で、綺麗にお化粧して、Jessica の名札を付けた、生物学的には男性であろう人がいたなあ。Fedex の制服だったので普段どんな服を選んで着ているかは分からなかったけど、ああ、この人はここで自分を偽らずにいられるんだ、よかったなと思った。ことを思い出した。
福岡市で、性別関係なく選べる制服に変える(大きな一歩だ…)にあたって、学校関係者が近所の人の理解を得るために話しに行ったとか聞いて驚いた。なぜ?? 近所の人全く関係ないじゃないか。たまたま学校の近くに住んでいるだけではないか。そういう、誰かの着るものに対する期待とか予想とか「こうあるべき」思想がねっとりとまとわりついて、普段は知らんぷりできるけど、何かがある度にその存在を再認識させられる。一事が万事で、着るものに限ったことでもないが。
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