誰もが抱えている、罪悪感についての根深い話。
正直、重苦しい気持ちになることもあったけど、やっと読了。
根本さんは、行動と、その奥にある感情を結びつけるのが上手だなーー。
罪悪感の種類
傷つけてしまった、助けられなかった、というのはわかりやすい罪悪感の例だけど、ほかにもある。
恵まれていることについて、何もしなかったことについて「あの時こうしておけばよかった」、自分は毒であるという思い込みも。
親の罪悪感を鏡写しして、一緒に感じてしまい、引き継ぐこともある。
罪悪感は上手につきあい、人生のスパイスにする
罪悪感は、悪いものではなくて、上手く扱い、付き合っていくもの。
罪悪感を持っている人は、愛もたくさん持っている。罪悪感は愛の裏返し。
罪悪感を持っていると自分を罰してしまう。手のかかる人ばかりを選んだり、わざと傷つく結末になるようなことをしたり。自分は幸せになる資格がないと思いこんでいるから。
罪悪感を手放すために、親友に接するように自分に接しよう
親友が「自分のせいだ」と言ったとき、本当にそうか?と思うよね。そうだったとしても、「そんなこともあるよ」「大丈夫だよ」って言ってあげられるよね? 自分にもそう言ってあげて。
「罪を憎んで人を憎まず」の精神も大事。
自分のゆるし方
罪悪感を癒やすこと=自分をゆるすこと。
「そうせざるを得なかった事情があった」と考えてみよう。自分に対しても、相手に対しても。
自分を理解し、受容し、自分らしい人生を生きることを自分にゆるす。
自分が愛されている証拠を探そう。人はさがしているもの、注意をむけているものを見つけ出す。つまり、自分が愛に値しないと思っている人は、その証拠に気がつく。自分が愛されていると思っている人は、愛されている証拠に気がつく。
投函しない、感謝の手紙を書こう。
「自分は幸せになってはいけない」という思い込みを手放す
自分の存在を丸ごと受け入れてもらえない、否定されるような環境で育つと、自分の存在に罪悪感を覚えてしまう。その罪悪感は、自分を傷つけ、幸せにしない感情。
そうすると、問題児ばかりと付き合い、自分のことを愛してくれる人に悪い態度を取ってしまう。「自分は幸せになれるはずがない、なってはいけない」という思い込み、観念があるから。
加藤諦三さんの本にもあったが、観念とは、「それをすれば傷つかない」と、自分に課したルール、思い込みである。でも、子供の時の見方は偏っているし、大人になった今それを使う必要はない。それを手放そう、ということ。
「私が愛されるわけがない」と思っている人は、優しくされると、それをテストしたくなって、ひどい対応をしたりする。「本当に私のこと愛してるの?じゃあ、このハードルを飛んで見せてよ!」
愛を持ってパートナーの罪悪感を癒やす
パートナーが、罪悪感から過労に陥っているとき。感情は共鳴するので、自分も、「助けてあげられなくてごめん」と思ってしまう。
で、癒着になる。「相方を助けてあげられない私はダメだ」と思ってしまう。愛ゆえに。
相手を助けようと、自分のことを後回しにする=自己喪失。
これは、遭難した人を助けるために、自分も遭難場所に飛び込み、共倒れしてしまうこと。
でそれはいっそうパートナーの罪悪感を重くしてしまう。
まず自分の安全を確保するのが先決。
まず自分が切り離すこと。
「私は私。夫は夫。
私は私でしあわせになれるし、彼は彼でしあわせになれる。
私は彼の選択を支持し、彼の選択を応援します。
私は私でしあわせを選びます」
というアファメーションを唱える。癒着を切り離し、自分軸を取り戻す。
そして、相手を助けることに関しては、自分がやりたいと思うことだけやる。
自分を笑顔にすることにもっと時間を使う。
相手に「ありがとう」を伝える。
感謝は罪悪感を溶かす効果があるから。
愛を伝える。
たくさん褒める。
罪悪感を癒やして幸せになっていったたくさんの人達のエピソードもあり、希望が持てました…。