思い立って島原に行ってきました。門と揚屋さん、置屋さんが一軒ずつ残っている。
揚屋(料亭)だった角谷さんは、角谷もてなしの文化美術館となって見学できた。
島原の門の柳は和歌にも詠まれている。
このあたりは西新屋敷という地名だが、なぜ島原というのかというと、この花街の移転騒ぎ(だんだん御所から遠ざかるように二回ほど移転していて、その二回目にここに来た)が島原の乱を彷彿とさせるものだったからだそうだ。
カフェもある
古いお屋敷
角谷さんの二階。ガラス窓がある
角谷の玄関だったところ。ここから久坂玄瑞とか新選組とかの、お客さんが出入りしたのか…
角谷の二階は撮影禁止だったが、いろんな部屋があり、それぞれ「扇の間」とか「青貝の間」、「桧垣の間」など、部屋名に沿った装飾が施されている。青貝の間は螺鈿細工がたくさんあるとか、扇の間は、使われた食器から、欄間や釘隠しまで扇モチーフ。といった具合。粋だ……。与謝蕪村が描いた絵もあり池大雅の書もある。角谷さんに頼まれるとは、名誉なことだったのではないだろうか。螺鈿の間には、新選組が宴会騒ぎをして残した刀傷も柱にあった。彼らは刀を入口で預けず、宴会場に持って行っていたそうな。物騒だな…。
一階の松の間は最も大きな宴会場だった。松の間からは立派な松(二代目)と茶室が二軒臨める。ここで芹沢鴨が暗殺される前の最後の宴が催されている…。
西郷隆盛が行水に使ったとされる手洗い桶が残り、これが角谷を救った。どういうことかというと、戦時中、空襲時の延焼を防ぐために、国鉄線の周囲50メートル以内の建物は取り壊すように命令があったらしい。で、役所の人が視察に来た際、角谷の主人は、この桶を見せて、こんなに重要な歴史的文化財がありますよと見せた。その結果、役人は「いったん持ち帰って検討します」といったそうで、そうこうしているうちに終戦を迎え、角谷は取り壊しを免れた。。。 角谷さん、すばらしい機転と交渉術でした! あやうく切り倒しを免れた、平清盛が植えた若一神社の楠にしてもそうだが、時代によっては、歴史的建造物の価値が全く尊重されないことがごく最近まであったんだな。
刀を預けるところ。
置屋さん(芸妓を派遣するところ)。一見さんお断りですが、ここに所属していた葵太夫さんのサイト等見て勉強になりました。期間限定公開の際にはぜひ見に行きたい。
帰り道、この近くでテレビのロケらしきものをやっていた。YOUさんがせんべいやで買い物をしていた!! テレビで見る通りだった。他にも2-3人、芸能人と思しき人がせんべい屋から出てきて私の目の前を通り過ぎ、一直線に黒リムジンに乗り込んだ(黒スーツを着たじいやもいた!)が、だれか分からなかった…。旅番組かな。
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