2.10.2024

「たゆたえども沈まず」/原田マハ

フランスに留学し、そのまま留まって、浮世絵など日本の美術品を輸入して売っていたという、林忠正。彼自体は実在人物で、その史実をもとにしたフィクション。

ゴッホ、ゴッホの弟テオ、彼らの周りのフランス人、そして忠正の後に留学してきた、加納重吉(この人物は創作らしい?)らが登場人物で、とても面白かった。

たゆたえども沈まず、というのはパリのことで、幾多のセーヌ川の氾濫にも負けず、たゆたって氾濫が収まるまで待ち、再興してくる街。たゆたう川のテーマは、本作を通じて幾度となく繰り返されていて味わい深い。

ゴッホ(名はフィンセント)とその弟テオの複雑な関係性、テオの仕事への葛藤、フィンセント自身の苦悩、忠正の野望と優しさ、重吉の純粋な人柄など、感情の機微の描写が細やかで素晴らしい…

そして、自然の移り変わりの描写も。ありありと情景が浮かび上がってくるのだから、文章というのは本当に無限の力を持っている。

以下、引用。

「考えこんでも、どうにもならないことだってあるさ。どんな嵐がやって来ても、やがて通り過ぎる。それが自然の摂理というものだ」
嵐が吹き荒れているときに、どうしたらいのか。ーー小舟になればいい、と重吉は言った。
「強い風に身を任せて揺れていればいいのさ。そうすれば、決して沈まない…だろう?」

*      *      *

忠正の横顔は、凛として風を受けていた。その瞳は、未来を見据えて輝いていた。

*      *      *

あんなに強く吹いていた風は、いつのまにか止んでいた。オワーズ川は、西日を弾いてきらめきながら流れていた。

*      *      *

「日本は私の理想の結婚相手だ。絶世の美女だ。この上もない貴婦人だ!」
「仮に、そうだとして」忠正がさえぎった。
「その貴婦人が、あなたにふさわしいと?」

*      *      *

西の空を薔薇色に染め上げて、夕日が音もなく街並みの彼方に吸い込まれていく。

*      *      *

そうなればいい。いつかきっと、そうなるように。
残陽が光の帯を引いて、川向こうに落ちていく。ずっと遠くの空で、宵の明星が輝き始める。
橋の中ほどに佇むふたりの影が、宵闇に沈んでいく。セーヌは滔々と、とどまることを知らず、橋の下を流れ続けている。


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