2.09.2024

「幸せになる勇気」/岸見一郎・古賀史健

アドラー心理学、三冊目にしてようやく意味がわかり始めた…!




アドラー心理学を熟知した哲人と、生徒が荒れてほとほと困っている、迷える教師である青年との、会話形式の本。ソフィーの世界を思い出す。しかも、青年の反論が、現実世界に即していて実に的を射ていて、「そうそう、それを尋ねたかった!」と思うことがしばしば。私の感想は<>内に書いています。

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哲学と宗教は相容れない、なぜなら、哲学は、抽象的に、我々は何で、どこへ向かうのか、どう生きるのかを考え続けることであるのに対し、宗教は全てを知っている全能の神が「全て」を語り、どう生きるかを教える。そこに自分が考える余地はないから。

アドラー心理学の目指すところ
行動面1.自立すること。自由を求め、無力な状態から自立すること。
行動面2.社会と調和して暮らせること。
心理面1.私には能力がある、と意識すること。
心理面2.人々は私の仲間である、と意識すること。

ありのままにその人を見る=尊敬。→その人は「自分が自分であること」を受け入れ、自立に向けた勇気を取り戻す。→しかし、その勇気を使うか使わないかは、その人次第。=課題の分離。

その勇気を使わないかもしれないと分かっていても、その人をありのまま尊敬する=無条件の尊敬。どんな結果が待っていても。

愛と尊敬は強制できない。愛や尊敬がほしければ、自分から与えるしかない。

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「過去は存在しない」=自分の物語は常に書き換えられていく。自分の今の解釈によって。

<まあここの部分は、必ずしもそうではないこともあるかなと私は思う。「過去のこの時期はとんでもなくつらかったなー でも今は幸せだなー」と思うことだってあるだろう。>

カウンセラーは、来談者に三角柱を手渡す。その二面には、「悪いあの人」、「かわいそうな私」と書かれている。自分のつらい体験は、その二者で語りがち。そして、最後の一面には、「これからどうするか」と書かれている。

「あなたは、人間の弱さを無視し、人間の弱さに寄り添わず、強者の論理を振りかざしているだけだ!」と青年に避難されるも、哲人は、「そうではありません。私は人間の強さを信じているのです。悪いあの人とかわいそうな私の話を聞いてもらって、一時的に癒やされたとしても、また傷ついたら、また癒やしを求めてしまう。それは依存というものです。これからどうするか、が、私達が語り合う必要のあることなのです。」

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「自分の理性を使う、勇気と決断を持て。」 カント「人は指示を受けて生きたほうが楽。難しいことを考えなくてもいいし、責任を取らなくてもいい。」だから、支配者側は、自立がいかにリスクを孕み危険なことかを力説する。しかしそれに惑わされるな。自立したければ。

「褒めて伸ばす、を否定せよ」 賞罰があると、競争意識を生む→周りの人は敵となってしまう。人生はマラソン。隣に伴走者がいるが、その人はライバルではない。だから、理想の組織は、賞罰や競争がなく、協力原理に基づいた、民主主義なのだ。

<なんとなく共産主義のような感じがするが… 意欲を削ぐという点で、共産主義が失敗に終わっているのは歴史が示している…。ただ、みんなにやる気があって、協力関係にある組織だったらうまくいくと思う。豆類学会がとても居心地が良いのは、協力的だからだと思う。利益や名誉を争って研究の競争をしているのではなくて、人類の健康、農業・環境保全への貢献という共通の目的に向かって一緒にマラソンを走っている仲間だからかーー。>

褒められることでしか幸せを実感できない人は、ずっと永遠に、他者からの賛辞を求め続ける。→依存の地位。

<森博嗣さんも、「もう大人なのだから、自分のことは、自分で褒めよう。」と言っていたな…>

「自らの意思で、自らを承認する。」=自立。
漫画でわかるアドラー心理学にもあった。「自分は生きていく価値のある人間なのだと、自分で決める」こと。

そしてそれは、「人と違うこと」に価値を置くのではなく、「わたしであること」に価値を置く。ということ。人と違うことを欲するのは、すなわち、「特別なわたし」であろうとすること。それには他者との比較が必要になってくる。そうではなくて、自分が自分であるだけで良い、と認める。「普通である勇気」、「その他大勢である勇気」。

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人生のタスク=一人の人間が、社会で生きていくにあたって、直面せざるをえない(対人関係に関する)課題。

1.仕事のタスク。できることを個人がして、分業して、共同体全体の生存に役立った。評価されるのは、あなたの「機能」。だから、仕事だけでは、幸せになれない。

2.交友のタスク。家族や友人など、あなたの「機能」ではなく、「あなた自身」を見てくれる。好悪のみによって築かれる関係。

3.愛のタスク愛とは、二人で幸福を成し遂げる課題

我々は、一人で成し遂げる課題、大勢で成し遂げる課題については教育を受けているが、二人で成し遂げる課題に関しては教育を受けていない。

愛は、「落ちる」ものではない。一時の激しい感情でもない。なにもないところから、自らの意思で築き上げていかなければならないもの。だから困難。愛は、多分に能動的なもの。それを知らない人々は、「神の愛」や「動物の愛」でもって愛を語り、自分の意思の枠外にあるものとみなしている。しかし、それは「人間の愛」ではない。

(人間の)愛とは、決断である。だから、究極的には、誰のことをも愛することができる。
フロム「誰かを愛するということは、単なる激しい感情ではなく、決意であり、決断であり、約束である。

どうやってたった一人とその一生の決断をするか?
→この人を愛したならば、自分はもっと幸せになれる。「私達の幸せ」を求める心。

そして、「幸せになりたい」と、「楽になりたい」とは違う。

愛とは、献身的な働きかけ。
花が好き、と言いながら、眺めるだけで、枯らしてしまう人がいる。
花を愛している人は、水やり、植え替え、日当たりを考える。努力をする。

愛の関係に待ち受けるのは、楽しいことばかりではない。どんな困難に襲われようとも、この人を愛し、ともに歩むのだという決意を持っているか。その思いを約束できるか。ーーあなたの場合も同じです。あなたは、愛する者が背負うべき責任を回避していた。恋愛の果実だけをむさぼり、花に水をやることも、種を植えることもしなかった。まさに刹那的な、享楽的な愛です。

愛の関係とは、「不可分なるわたしたちの幸せ」。
これまでずっと、人生の主語は「私」だった。本当の愛を知ったとき、それが「私達」に変わる。自立とは、自己中心性(泣いて親の注意を引かなければならない赤ん坊のような)から脱却することである。

<いや〜〜〜〜〜…… 言葉が出ませんでしたわ…… これって、理解することそのものにも時間がかかるし。いわんや実行することをや。ある程度年齢いかないと、なのか…とか。花の例えは、本当に素晴らしい例え。愛することは能動的で、エネルギーが必要で、それが良い結果となって自分に返ってくるかはわからない。でもそれでも愛する。与える。と。 相手を愛し幸せにすることが、自分の幸せでもあり、ひいては「私達」の幸せになる。そんな高尚な、利他的な愛を、知って、価値が分かって、実践しようと不断の努力を続ける、と、二人共が覚悟しないといけないね。単なる惚れた腫れたの話ではない。そうっとうに深い!! これって、人類皆学ぶべきことでは?普通教育に取り入れませんか…!?>

我々は、他者を愛することによってのみ、
1.自己中心性から解放される
2.自立をなしうる
3.共同体感覚(同じ心と、同じ種類の人生を持って、相手を理解する)にたどり着く。

生きている、ただそれだけで貢献し合えるような、人類の全てを包括した「私達」を実感する。それは、凄惨な第一次世界大戦を目の当たりにした、アドラーの願いだった。


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<見返りを求めない愛、無償の愛、とは、何かもっととてつもなく高尚で、マザーテレサやガンジーのような、俗世界から全てを捨てて献身する道を選んだ人だけが与えられるものだと思っていたけど…そうではないんだ。誰でも、私も、あなたも、能動的で、献身的で、決意に満ちた、人間の愛でもって誰かを愛することができるんだ。そしてそこから、「私達の幸せ」を創り出して行けるんだ。それは、自分中心だった世界からは、また全然違った眺めだろうな。これを読んだ人と語り合いたいなーー!>


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