綾小路通にある、江戸時代から10代続く豪商の家、「杉本家住宅」に行ってみた。月に何度かしか公開していないのでタイミングを見て。
明治3年に建てられたものだそうだ。商家の家はどんなにお金があっても慎ましく華美にしてはいけないという教えがあったそうで、畳の縁は黒、襖の色は白、欄間も派手なものは普段は隠して、ハレの日だけに出す、など。茶室も本格的なものは作らず、廊下を改造してちょこっと。
商売人は茶道に傾倒してはいけないのだそうだ。お金のかかる茶道なんかに興じてないで、本業を頑張りなさいということなのだろうか。
とはいえ、やはり豪商の家で、色や意匠はシンプルだけど材料は当時の最高級品がそろっている。四方柾目の柱があったり壁はすべて左官屋さんの塗り壁だったり、たたみは中央部分に帯状の線が見える(い草の細いところをきめ細かく編んでいる)最高級品だったり、庭のひさしは1本の松の木の梁を渡してあったり。縁側の床も一枚板だ。床の間の段になっているところは黒漆塗で、これも普段は木の覆いをつけてあるけれど冠婚葬祭の時などには出して見えるようにするのだそう。茶室の床の間っぽいところに作られたひょうたん型の壁も見事だった。曲線に塗り壁をする左官屋さんの高い技術がわかるそうな。
間口も、当時許されていた最大の幅だったそうな。大きい家だ。
あと、襖を取り外すと3部屋をつなげることができる。その際、木の敷居はパコッと外すことができて、その分畳をずらすことができる。3部屋が、敷居もなくなって一面畳になり、1つの部屋になるのだそうだ。そんなことをする理由は、冠婚葬祭などで何十人も集まる際、「自分は二の間に通されたな」「自分は三の間に通されたな」とガッカリさせないように、という心配りなのだそうだ。上座下座はあるけれど、一つの部屋にご招待しましたよということか。敷居のうえに座ったら痛いからだろうと思ったけどそういうことじゃないんだなー。深い。
仏間の下には地下室があって、家宝とかをしまっているらしい。昔は本当に家事が怖くて、いったん火事が起こったら大事なものは埋めるか抱えて逃げるかしかなかった。今はそれもあまり変わらないかもな。
京都の街は平安京時代から碁盤の目になっていて、120 m x 120 m の区画と通りからできていた。けど、秀吉が真ん中に1本通りを通して、さらに区画を分けて、長屋を作って人口増に対応せよとの命を下した。つまり2つの120 m x 60 m の区画に分けよということ。でも、杉本家などの豪商の家は力が強かったので「そんな事言われても困りますわ〜」で従わなかった。杉本家やその辺りに住んでいた豪商は自分たちの120 m x 120 m の区画をそのまま守り、正方形の碁盤の目状のままの場所が多いのだそう。その地域はまさしく祇園祭の鉾が建てられる地域で、有力者やお金持ちが多いのだそうで…先祖代々脈々と、いろいろと受け継がれている。
幕府や公家や天皇家にお金を貸したり(たいてい返ってこなかった)、仕入れやさんとして御所に物品を運んだりもした。そんな時には公家の方が和歌を一筆掛け軸に書いて、それを下賜して、「お代として」みたいな感じだったそうな。だから杉本家には菊紋のついた器や、公家からの掛け軸がたくさんある。飢饉が起これば、同じ町内やそれより少し広い地域の住民たちに向けて、杉本家やその他豪商が真っ先に炊き出しを行ったりお金を援助したという。名家だなぁ、というか、貧富の差が物凄いというか。
新婚さん用の部屋(そんな部屋があるのも凄い…)には柔らかい印象となるように鳥さんたちの掛け軸も。
庭に隠し雪隠(トイレ)が。「一応作ってますけど、使ったら二度とお招きしません」という代物らしい。こわ!
蝙蝠をかたどった欄間の模様で、幸運のモチーフ。
一本の木で庇を支えている。長い木なので高級品だろうな。
手水鉢?のそばにおいてある瓦には「東大寺」と書いてあるそう。「東大寺の瓦、こんな珍しいものは杉本さんが買ってくれるんじゃないか」と持ち込まれ、援助的な形で買ってあげたらしい。
おくどさん、昔はこの米の釜が7つあったそう!いかに大所帯の家だったか分かる。
写真取ってないけど、こういう、庭に置かれた平たくて大きい石は高級品であることが多い。杉本家住宅にあったその1つを秀吉が気に入り、「反物3反(?記憶があいまい、、、)で交換してくれ」と言ってきたが断った石があるそうな。ただこの屋敷は明治初期に造られたので、石だけ取っておいた(火事で燃えずにのこった)のか、そういう石が昔はあった、ということなのか…
御殿づくりのお雛様。スケール大きい!こちらにはないけど、御殿の屋根まであるフルセットもあるそうな。とんでもない大きさ&天井高さのある家じゃないと入らない。















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