改めて読んでみた。
薄い本だけど長い…もっと削れる気がする(と編集者魂が顔を出す)。しかし、資本主義と対比して書かれているのは鋭い視点だし現代にも十分すぎるくらいに通ずるものがある。
時間のない人は、最初の章「愛は技術か」と最後の章「愛の修練」だけ読めば事足りるような気もする。その間の章は、フロムの独り言だなーーと思わんでもない。母性、父性が二律背反のように語られていたり、同性愛が病気と語られていたり、「それは受け入れられないな」と思う箇所もある。
フロイトが、すべての行動動機は性欲に結びついている、と考えたことに対して否定したのはお見事というか、違う考え方ができてきてよかった、というか。
時代的・文化的な背景として、「神への愛」がページを割いて語られているのは興味深い。が、同感できるか、自分に関係ある物事として捉えられるかといえば全然なので、この時代自体にさほど興味無ければ寄り道なのかもしれない。
最初の章「愛は技術か」
愛は技術である。なぜなら愛することは自然発生的に生じるものでも、落ちるものでもなくて、自分の意思で能動的に行うものだから。
自分を愛せない人は他者をも愛せない。
ある特定の人だけ愛する、あとの人は愛さない、なんていうこともできない。
愛は全ての対象に向けられるものだからだ。
愛は技術だが、現代(当時も現在も)ではそう思われていない。それには3つの誤解がある。
1.「愛すること」ではなくて「愛されること」の方に主眼を置いている。だから相手に気に入られるように収入を上げたり自分を磨いたりする。
2.愛の問題は「対象」の問題であって「能力」の問題ではないという思い込み。中世では取り決めやしきたりで結婚してから愛が生まれるものと考えられていた。現在は、「愛することは簡単で、その人を愛したいと思えるような人に巡り合うのが難しい」となっている。市場原理に基づき、現代では、自分の能力、年収、将来性、容姿などがひっくるめてパッケージとなり、それを「等価交換」してくれる相手を探す(まさに婚活の「スペック」などその例だ)、生活に根付くその市場原理が愛情関係にも現れている。
3.恋に「落ちる」という最初の体験と「愛する人とともに生きる」という持続的な状態が混同されている。
「愛は人間にとって必要で、孤立の不安から逃れる唯一の方法と言ってもいいのに、現代人はなぜか「愛よりも重要なことはほかにたくさんある」と考えている。成功、名誉、富、権力、これらを達成するためにエネルギーを遣い、愛の修練のための時間もエネルギーも残っていない。「愛は心に『しか』利益を与えてくれず、資本主義社会的な意味での利益はもたらしてくれない」と考えている。」
というのは耳が痛かったな。。。
西洋の近代化(日本でも同じ事が起こっているが)により、あらゆるものが商品になった。人は自分の技能、知力、時間を総合パッケージにして売り出し、賃金と交換するようになった。つまり人間でさえ商品になった。しかし人間をその価値により交換可能な商品としてみなすかぎり本当の愛にはたどりつけない。というようなことが書いてあったのはうなずいた。
また近代化で労働者が生まれたことに関連して、「一日8時間自分のためではない組織の目標に向かって、自分のやり方ではないやり方で仕事をする反動で、人は仕事以外の時間では自分を甘やかそうとする。怠けていたいという言い方がきつければ、「リラックスしたい」である。それは時間も成果も場所もきっちり決められた行動に対しての、反動である」というのも同意である。
本当に仕事は「会社のため」とか言われても自分には響かないし、決まった時間に締め切りに追われながらいろんなことを集中してこなしていかなければならないストレスは大きい。
最後の章「愛の修練」
愛は技術だから学ぶべし、修練すべし、というのがこの本の最終章の論で、修練に必要なのは規律、集中、忍耐、最大の関心である。
規律は疲れていようがやる気がなかろうが同じことをするということ。
集中にはいろいろな面があり、相手の話をよく聞く。相手から逃げずにそばにいる、相手に対して敏感になる、自分自身に対しても敏感になる。
しかし現代社会の仕組み上、規律、集中、忍耐、関心を揺さぶり誘惑するものに満ちている。というのがフロムの指摘。
ただ、技術向上に最大の関心を持てば、規律は自分の意思の表現となり、やることが楽しいと感じ、ついにはやめると物足りなくなる。その展望は勇気づけられる内容だ。
客観的に物事を見るためには理性が必要である。理性を働かせるためには感情面での謙虚さが必要(ナルシシズムの逆)。ナルシシズムとは自分の見方が全て、自分が(色眼鏡を通して)見ている世界が本物の世界だと思い込むこと。
「理にかなった信念」=「根拠のあるヴィジョン」 生産的な分析と思考に基づいた、他のいっさいから独立した確信。科学者がデータを十分にあつめて吟味してその上でたてた仮説。確信。自分の経験や、観察力、判断力、思考力に対する自信に根ざしている。
対して「根拠のない信念」は多数の人々がそう思っているから、とか、道理に適わぬ権威への服従である。
愛の修練に必要なのは「信じる」ことで、他者の核となる部分が「信頼に値する」と信じること。
また、自分自身も信じること。自分が自分であること、自分の感情や意見が多少変わろうとも変化しない芯のようなものがあるという確信が、自分を「信じる」ことにつながる。これがないと他人依存になってしまう。
信念を持つには勇気がいる。勇気とは危険を冒す覚悟のことで、痛みや失望を受け入れる覚悟である。
困難な場面に直面したとき、「自分には起こるはずのない不公平な罰だ」と考えずに、自分に課せられた試練だとして受け止め、これを乗り越えればもっと強くなれると考えるにも、勇気と信念がいる。他の人たちがなんと言おうとも。
「人を愛するということは、何の保証もなしに行動を起こすことである。こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に全身を委ねることである」
た、確かに……。まだその段階にない人(心のなかに芽生えるかもしれない愛を認識し返すことができない人)もたくさんいるかと思うので、現実的に考えると「人選」が非常に大事な気はするが…。その思考自体が、「最初の章で紹介されていた誤解2.愛の問題は「対象」の問題であって「能力」の問題ではないという思い込み」なんだろうけれど…。
愛の修練に関して大切なのは「能動性」である。自分から行動を起こすこと。
「公平さ」は資本主義社会が倫理に与えたもっとも大きな影響だった。資本主義社会以前は、者の交換は、権力、伝統、愛、友情にもとづいていた。(それはつまり、権力者による民衆の搾取という形も含むと思うのだが。。。)それに対し資本主義社会では「市場のルールに則った等価交換」、「あなたがくれる分だけ私もあげる」。
愛は必ずしもそういうことではない。愛は相手に責任を感じ、相手と一体であると感じること。公平さは、相手と隔絶しており、責任も一体感も感じていない(愛と公平の違い)。
現代社会は大企業の経営者と職業的政治家によって運営されている。ひとびとは生産し消費するためだけに生きていて、自分の中にある極めて人間的な資質や社会的役割に対する究極的な関心を持っていない。資本主義と愛は両立しない。したがって、人間はほんとうは愛したいと思っているならば、社会の仕組みと合致していない。よって愛が社会的な現象になるためには社会構造が変わらなければならない(『正気の社会』において詳しく論じられている)。しかし資本主義社会も複雑で、非同調や個人の裁量を許容していることも確かである。愛こそが、いかに生きるべきかという問題に対する唯一の理にかなった応えである。
と締めくくられている。頷くことの多かった書でした。

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