私は恵まれている方だと思う。大学教育を受けられたし、日本では、多数派の(外国人ではない)日本人だし、お金で苦労したこともない。
一方で女性であること、また地方出身であることで不平等だと思うこともあった。女性は日本ではまだ下級市民である。直接的に言われることはなかったけれど、女性の管理職の少なさ、女性の国会議員の少なさ、そして子育て世代の女性だけの労働率の低さを見ればこの国の女性の地位の低さは明らかである。それがいいと言っているのではなく、これは厳然たる事実で、緊急に是正されなければならない。私は男女の役割がきっちり決まっている会社生活を経験して大変に居心地悪く思ったが、それは大なり小なり日本で蔓延している会社文化なのだろうと想像する。そして地方出身であることでの圧倒的な情報格差。大学は近くにないし、車が無ければどこにも行けないし、文化的イベントも都会に比べ少なかった。今はインターネットの時代で、情報はそれなりに手に入るのかもしれない。それでも、五感を駆使して体験する経験においてはまだ格差があるだろうと思う。
アメリカの大学院生活は日本文化とはまったく違うものだった。女性の教授は普通だし、リーダーの地位にいる女性は驚くほど多い。大学という場所に限って言えば、男女ほぼ半々ではないか。私自身、女性の教授とそのお客さんに、男性の部下がコーヒーを持ってきているのを見て、「これがアメリカか!」と衝撃を受けたのを覚えている。アメリカにはとても多様な人々がいる。様々な人種、宗教、文化が混在している。例えば見た目は東アジア人でも、その人がどこで育ち、何語を母語とし、どんな宗教を信じて(あるいは信じていなくて)、どんな文化的背景を持っているのか、その人に聞く以外知るすべはない。日本では、東アジア人に見える人は9割がた、日本人で、日本語を母語とし、日本文化のなかで生まれ育ったことがほとんどであることと対照的だ。もっとも日本の大都市では多様な人が増えているようだが。
しかし、アメリカの人種の問題は根深い。黒人差別、ラテン系差別、それによる経済格差も大きい。大学で言っても、学部によっては白人男性が大部分を占める分野もある。性的少数者も、認知が進んできたとはいえ、嫌がらせ、誤解、拒絶などはなくならない。その解決策も簡単ではない。大学の入学者数を人種によって割り当てることに論議が巻き起こっている。白人の生徒が、自分より低い成績のマイノリティの生徒が、自分が落とされた大学に入学できたことに対して抗議した。マイノリティが、白人ほど簡単に教育を受けられないことを鑑みれば、このシステムは理にかなうのかもしれないが、その白人の生徒個人としては、自分の方が成績がよかったのに、という悔しさも十分にわかる。全く簡単ではない。倫理学の講義と同じだ。授業が終わるたび、分かった!という快感どころか、より混乱し、考えさせられ、袋小路の社会を突き付けられる。常に考え続けていくしかない。
人は多様な側面を持つ。同じアジア人でも、認知する性別、性的嗜好、言語、文化、性格、身長、体質、受けた教育、経済状況、配偶者の有無、年齢などが異なる。だから、違う切り口で人を見れば、誰もが虐げる側、虐げられる側になりうる。その認識が、多様性を尊重する態度、個人個人それぞれが独特な存在であるという考え方に繋がるのではないか。現在既に存在する人種やジェンダーの問題を軽視しているのではない。むしろ例えば、不当に優位な立場に立っているとされる白人男性でも、他の切り口で見れば虐げられる側になるかもしれない。その共通の認識こそが、「私」と「彼ら」の垣根を払う。
多様性の問題は本当に難しい。努力を続けていくしかない。みんなが住みやすく、公平な扱いを受けて、それぞれのポテンシャルをいかんなく発揮できるような社会になるよう、継続的に全員が動いていくしかない。間違いを犯したときには頭から責めるのではなく話し合い、学んだことを共有し、次から同じことをしないように皆で気を付けていく。そういった学習と変化を容認することを積み重ねて、どんな個人も過ごしやすく、生きやすく、働きやすくしていきたい。
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