2.06.2025

『私はアセクシュアル 自分らしさを見つけるまでの物語』/レベッカ・バージェス 



親密な思いは持つものの、性的な体の接触はしたくないレベッカ。

彼女の不安症、強迫性障害(ルーティンをしないと、なにか悪いことが起きるのではないか)もあいまって、「いつかはセックスするんだ。すべきなんだ。」「でも嫌だ。」「私はどこかおかしいの?」でずっと葛藤する日々。

まだインターネットも普及していなくて、情報がなく、「アセクシュアル」という言葉も見つけられなかった。カウンセラーでさえ、アセクシュアルのことを知らなくて、「あなたもいずれセックスをすることになるんですよ。あなたが恋愛感情を持てないのは、今いろいろとありすぎているからで、心の準備ができていないからかも」と彼女に言っている。することになる、って何だろうか…。自己決定権が、そこには無い。今だったら、カウンセラーはどういう反応をするんだろう。これがイギリスが舞台というのが興味深い。

相談したいことがあって行ってみた心療内科で、担当のお医者さんが、「私も実はアセクシュアルなんだ。でも、私のそのままを愛してくれるパートナーがいるよ」と伝えてくれたこともあったな、そういえば…と思い出した。ちょっと自慢気の強い言い方で、その時は、「なんか、のろけ話を聞かされただけな気がする…」と思ったが、メッセージだけ取り出せば、「アセクシュアルもいる。それは普通のこと。パートナーシップを望めば可能。」ということ。まあ、頭ごなしに否定されなかったのはよかったのだろう。


結局のところ、社会の考え方(ってすごく荒っぽい言い方だけど)も、科学の知見も、変わっていく。し、どの時代で、どの国で相談するかによっても違う。同性愛が精神疾患に分類されていた時代もあったし、いまだに同性愛を法律で禁じている国もあるのだ。たまたま今ある仮説や分類に、自分が当てはまるかどうか、わかるのは自分だけだし、当てはまっていなくても、まだ認知されていないことなのかもしれないし、自分のユニークさなのかもしれない。自分を理解するヒントになるかもしれないし、ならないかもしれない、それだけ。素直な心になって、自分がそう思う・感じるのであれば、それは本物なのだ。他の人が、外から、ああだこうだと言う筋合いは無いし、それを真に受ける必要も無い。でも、それがわかるまでに、すごく多くの時間と書物と、内省が必要だったなーと思う。


2つの考え方がこの世の中で流布されている。映画、音楽、ドラマ、小説、あらゆる媒体を通じて。
  1. 恋愛的惹かれの先には当然、性愛的惹かれがあって、好きな人とはセックスをしたくなるものだ(恋愛的志向と性的志向の混同)。
  2. 恋愛して、結婚して、家庭を作って、パートナーと一生添い遂げる、それが人生最大の目的なんだ(恋愛伴侶規範、排他的なパートナーシップが他の人間関係よりも優先されるべき、という考え)。
これは、アセクシュアル、アーバン・トライブ*、ポリアモリー、クァーキアローン**を自認する人々にとっては居心地の悪いものだし、自分はなにかおかしいのではないか?と不安になったり、ありのままの自分でいることを躊躇したりすることにもなるかもしれない。

*アーバン・トライブとは、ある一定の人生観、意識、志向、生活スタイルなどを共有した小集団。(古田幸男訳、1997年、『小集団の時代ーー大衆社会における個人主義の衰退』)
**クァーキアローンとは、カップルになることよりも一人でいることを楽しみ、自発的に一人でいる人のこと。quirkyalone. "Quirky" (変わった、よじれた)という単語を使っている点で、なんか変な感じだけど、当事者たちが言い出したのかもしれない。LGBTQの当事者たちが自分たちを"queer"(奇妙な、風変わりな)と表したように。

不安障害、強迫性障害(掃除しなきゃ、でないと悪いことが起こる…)、シェアハウスでのいざこざ、好きだなと思った相手に性的に触れられると気分が悪くなる、でもそれが言えない、カウンセラーにさえ理解してもらえない、加えてリーマン・ショック真っ只中での就職活動、という、なかなかに波乱万丈な彼女の半生が、漫画の形式で書かれているので一時間くらいでサラッと読める。でも、絵を使ったメッセージは強力だ。不安が黒いもやもやのような形で襲ってきて、レベッカの頭に重くのしかかっている所とか。うつ病を発症した他の人たちもそのように表現しているのを見かける。

心の状態は、その人その人によって違うから、一般論とか、自分の解釈で決め込まず、繰り返し聞いて、その時の、その人個人の状態を、理解しようと継続的に努力するしかないんだなぁ。

アセクシュアルが知られていない、もしくはその存在を信じない人がいるため、アセクシュアルなんだ、と打ち明けても、心ない言葉が返ってくる事が多かった、とレベッカは振り返る。
「大げさだと思うよ。まだ、ぴったりの人を見つけられていないだけだよ。」
LGBT(他の人を好きになり、性的欲求を持つ人達)にさえ、「アセクシュアルなんて、偽物のアイデンティティだ」などと中傷され、理解されないこともある。

そういえば、以前国際学会で会った人(壮年男性)も、「子供を作らないと後悔するよ。そういう女性をたくさん見てきている」と、しつこく言ってきていた。何だこの人?と最初は思っていたけど、あまりに長々と話すから、その後しばらく、私の頭の中のメモリを占拠していた。この人も、要は、自分の価値観を押し付けていただけ。親切心かもしれないが、余計なお世話である…。年長が年少を導くという彼の文化的背景もあっただろうし、ただ単に誰かと話をしたかっただけなのかもしれない。ともかくも、これを適当な所で切り上げられないのは、自己主張できない私の課題であった(笑)。

自分の物差しを当て、自分の考え方をそのまま相手にも当てはめる、それを私達はやってしまいがちだ。いかにそれを自覚して、自由になるか。フラットな目で物事を見るか。そして、自分の価値判断は脇に置いておいて、相手を尊重するか。いつも心に留めておきたい。

結局は「尊重」が一番先に来る、ような気もする。

「そうなんだ。それってどういうことなのか、もっと説明してくれる?」
と言えるように。



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