もっと考えたら?と思う。
産むとか産まないとか。
子どもがほしくてほしくてたまらなくて、できなくて悲しむ人もいる。
一方で、親になる準備が全くできていない人が、親になったりする。
性欲解消目的で、とか
寂しさを埋めるために、とか
身売りしないとお金がない、とか
夫婦子無しでは世間体が悪いから、とか
将来面倒見てもらいたいから、とか
そういう理由で子作り行為をして
妊娠して中絶したり、
育てられる見込みもないのに産んで
虐待したり、キャパオーバーになって
機能不全家族になったり。
そういう話を読むだけで、聞くだけで、心がざわざわする。ふだん怒りの感情を感じられない、出せない私にさえ、怒りの感情が、ふつふつと湧いてくる。
子どもの命を、人権を、何と思っているのだろうか。
子どもだって、独立した人格で、いずれ大人になる、一人の人間で、幸せになる権利がある存在なのに。
親になる覚悟が、できてない人が多すぎる。親になるとはどういうことかを、考えていない人が多すぎる。親には、
どんな子でも愛する、という覚悟
自分を満たすことができていて、四六時中最大限のお世話と愛を必要とする子どものニーズを満たす、精神的・体力的・経済的な準備がある(自分の世話もできない人が、子どもの世話なんてできるわけない)
子どもの幸せが自分の幸せ、と、自分の人生の主役を譲る準備ができている
子どもを一人格として認め、その子が独り立ちできるように援助するボランティア精神
など、それはそれは精神的に高尚な要件が必要だと思う。
親になるということは、並々ならぬ決断である。
そして、語弊があることを承知で言うと、
非常に高価なアクティビティでもある。しかも途中で投げ出してはいけない。
そんな、一方通行、片道切符の道に、軽はずみに足を踏み入れる人が多すぎる、と、私は憤慨している。
もっと真剣に、人ひとりの命を「授かる」ことについて考えてほしい。
人権をもつ尊い存在である人間と、動物的な本能に支配された子作り行為が、繋がっていることが理解しがたい。
生物進化の皮肉である。
逆なら良いのに。
子作り行為が二人ともに痛みを伴う苦しいものであればいいのに。困難を伴う親業をするぞと覚悟を決めた人たちだけが、この痛みを感じてでも子どもを授かりたい、と思ってするように。
そして、出産が、快感と幸福感に満ちたものであればいいのに。新しい命と、新しい親たちの誕生を祝うように。体力を削られることもなく、スムーズに親業を開始できる。
もっと言えば、妊娠するのは男性か女性か、半々の確率で決まればいい。男性が妊娠できないのはおかしい。女性にばかり負担がいくのはおかしい。
生物学の理論をいろいろ無視して言っているけれど、生物学者の端くれとして、いろいろ知っている上の意見です。ヒトは、あまりにも未熟で産まれてくるのだから、そんな子どもを世話して擁護すべき存在の親が未熟な状態だなんて、たまったものではない。
いまだに、男性が「子どもが欲しい」と言っているのを聞くと、
「いいよね、あなたたちは10カ月も赤ちゃんを体内に抱えて過ごさなくていいんだから。出産の痛みを体験しなくていいんだから。欲しいなんて言うのは簡単だろうね。マイカーが欲しい、ぐらいの感覚だろうか」と思う。
世の男性は、「子供欲しい」=「10ヶ月の妊娠、つわり、体調不良に耐え、出産の壮絶な痛みに耐えて欲しい」であると自覚して欲しい。
一方で、男性どうしのカップルになると、「男性が妊娠できないのがほんとに悔しい。自分たち二人の愛の結晶としての子どもが欲しいのに…」と感じている方々もいる。やるせない。もっとも、女性同士のカップルでも、二人の遺伝子を分け合った子供を持つことはかなわない。
そう思うと、凝り固まった生物の生殖の仕組みを呪いたくもなる。
産まれたばかりのヒトの未熟さ。
親業をしたいからではなく、一時的な性的な快楽のために、あまりにも軽はずみに親になってしまう人たち。
そして、愛情不足、トラウマに苦しむ子どもたち。彼らは将来大人になって、親と似たようなことを繰り返す。それしか知らないのだから。
悲しすぎる。何とかしてくれ。考えてくれ…。性欲なんて無くなればいいのに。と叫びたいです。
誰かの心に響けば幸い。
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