11.30.2024

神宮カフェ

神宮の鳥居眼の前。非常に良い雰囲気だった!

パスタ、ラザニア、キッシュなど。キッシュは大人気らしく売り切れていたーー! サーモンキッシュ美味しそうだったな。また次回!

陶芸品ギャラリーや、坪庭まであり、素敵だった。







11.29.2024

リーダーシップセミナーとしての感想

自身がリーダーシップをさらに発揮するうえで、どのような課題や問題意識を持ったか。

同じテクストを読んでも多様な解釈や意見が出る。もはや、男女の二元論、国籍での一括り(「日本人は〜」)、年齢での一般化などは不可能になっている。と感じました。
  • 多様性の包括、
  • 性急に結論を出さない、
  • 自分自身の倫理観に裏打ちされた長期的なビジョンを持つ、
  • 折々に古典に触れ、多種多様な角度から物事を観る、
  • 人の話を先入観無しによく聴く、
  • 評価をせずに、ただありのままに受け止める、
  • 常に学び続ける、謙虚な姿勢を持つ
などを忘れないようにしたいです。

教養を深める意味でも古典を読めて非常に勉強になったし、他の参加者の方々の意見や捉え方を聴いて理解する過程も非常に重要で有意義なものでした。

業務に忙殺される日々を離れ、自然豊かなけいはんなの地で古典に向き合って対話する機会を持てて贅沢でした。人間的に幅が広がった気がしますし、生涯学んでいく謙虚な姿勢を思い起こすことができました。日本の教育は知識偏重し過ぎているので、このような、思考をアウトプットする形式のセミナーを多くの人に受けていただきたいです。ドイツとかフランスとかの教育は、考えさせて小論文を山程書かせる形式らしいので。その分、細部までは記憶する時間はないかもしれないけど、批判的、論理的、自律的に考える力を身につける方がよっぽど大事じゃないかなと思います!


11.28.2024

哲学合宿で得た一番大きなもの Lessons learned

この二泊三日の哲学合宿で得た一番大きなものはおそらく…

このセミナーがなければ出会わなかったような、業界や職種の全く違うリーダークラスの人々との出会い。一流企業の一流人材の所作、考え方、これまでの経歴、すべてが勉強になりました。

特に、人相手の仕事を長年やっている人は、語彙力、話し方、雄弁さ、瞬発力、人の話を聴いて理解する力など、口頭言語に関する能力が高い! 当然のことながら、すごい分化しているというか、モノ相手の仕事を長年やっている私とは全然違う能力が育っているんだなーと。私が瞬発力に課題がある…のは、鍛えていないのだからしょうがない。発言のたびに心臓がドキドキする、臨戦態勢になる、あらゆる悪いことを想定してしまう、というのは、場数を踏んでいないからだし、よく知らない人、多数の人とのコミュニケーションが心理的負担になっているからである。と、冷静に自分を見ていた。ここは、「自分に無いものを持っていて羨ましい」、ではなくて、「モノ相手の仕事、自分に合った仕事ができていてよかった…」と思えたので、だいぶ自己受容が進んでいる。

なぜならば、別に一流企業で一流のことしていなくても、人は存在しているだけでいいのだから。

カントも言っていたけど、人間の存在そのものは目的であって、手段ではないのだから。(と、カントを読んだ今ならそれを引用しつつ言える!)

やはり鍛えられている幹部候補生は違うなぁ…と思いました。ただ、彼らの話を聞くと、「失敗して怒られる」とか、「投資分回収できないよ、どうするの?」と言われる、「仕事が終わらず土日も持ち帰ってやっている」、「何人もの部下のマネジメントに追われる」など、企業人としてやはり大変なこともたくさん。ストレスも多いし、通勤も大変だ。自分は…心の余裕とコントロール感を持って、自分が心地良いような形で社会に貢献して、生活するためのお金を稼ぎたい、とも思った。

例えて言うと、趣味でテニスをしている身で、オリンピックレベルの一流テニス選手を見た気分。彼らの能力も素晴らしいし活躍は華々しいのだが、彼らの努力量、忍耐、苦難、などを考えると、やはりそこまでやろうと思える人は一握りだし、やれる人もわずかだと思う。趣味レベルで充分なのに、オリンピックに出なければ!と意気込んで心身をすり減らしてしまっては元も子もない…。

こういう出来る人たちを間近で見てもう一つ思ったのは、自分を癒すとか、トラウマがとか、というのはフェーズ1である。それももちろん大事。で、それを遥かに(おそらく)乗り越えているだろう職業人の皆さんに会って、奮い立たせられました、ある意味。「過去は過去。コントロールできなかった。たくさん傷ついた。それはそれ。その上で、自由な一個人として、自分が成し遂げられることは何か。今の時代の問題について、自分ができることは何か。」と問う。それがまさに人生のフェーズ2で、そのフェーズ2に行きたいと思いました!!

ホテルからの朝焼け。朝6時半に起きて、朝散歩しつつ、古典を予習するという、高校生みたいな健康的な生活をしていました…!


The most significant thing I gained from this three-day philosophy retreat was probably...

Meeting leaders from different industries and professions—people I never would have encountered without this seminar. Observing the demeanor, thought processes, and career paths of top talent from leading companies was an incredible learning experience.

Particularly striking was how people who have worked with others for many years possess exceptional verbal skills—vocabulary, eloquence, quick thinking, and the ability to listen and understand others’ perspectives.  Their verbal abilities are highly refined, reflecting the nature of their work.  In contrast, as someone who has worked with "things" for many years, I realized that I’ve developed entirely different skills.  For example, my quick-thinking abilities are lacking, but that’s not surprising since I haven’t trained them.  My heart races every time I speak up, putting me into a fight-or-flight mode where I imagine all the worst-case scenarios.  This anxiety stems from a lack of experience in these settings and the psychological burden of communicating with unfamiliar or numerous people.  I observed myself calmly during the retreat, acknowledging these weaknesses. 

However, instead of feeling envy for what I lack, I thought, "I’m glad I’ve been able to work with things, a type of work that suits me."  This realization marked significant progress in self-acceptance.

After all, as Kant pointed out, humans have intrinsic value simply by existing.  We are ends in ourselves, not means to an end. (Having read Kant now, I can confidently reference him!)

That said, it’s undeniable that these trained future executives stand out.  Listening to their stories, though, I realized their lives aren’t without challenges: being scolded for mistakes, facing pressure to recover investments, bringing work home on weekends, or managing multiple subordinates.  Corporate life clearly involves considerable stress, long commutes, and other hardships.  Reflecting on this, I felt reaffirmed in my desire to live with a sense of mental freedom and control—contributing to society in ways that feel comfortable to me while earning enough to support my lifestyle.

It’s like being a casual tennis player watching Olympic-level athletes. Their skills and accomplishments are dazzling, but the sheer amount of effort, endurance, and hardship they endure is unimaginable. Only a select few have the drive and capability to go that far.  For me, playing at a hobby level is sufficient.  Pushing myself to the point of emotional and physical exhaustion by aiming for the Olympics would defeat the purpose.

Another realization I had while observing these highly capable individuals up close is that healing oneself or addressing personal trauma is truly "Phase 1" of life.  That’s important, of course.  But meeting these professionals—who have likely moved far beyond that phase—was deeply inspiring in a way. 

They seemed to embody the mindset of: "The past is the past.  I couldn’t control it, and I was hurt deeply.  But that’s that.  As a free individual, what can I achieve now?  What can I contribute to addressing the problems of our time?"  That’s the essence of what I see as "Phase 2" of life, and I now feel motivated to step into that phase myself!

11.27.2024

【認識】

認識のセッションは一番とっつきにくかったですねーー。
その分、皆でああでもないこうでもないと議論できてとても楽しかったです。

プラトン『パイドロス』
アリストテレス『形而上学』
パスカル『パンセ』
カント『道徳形而上学の基礎づけ』
デューウィ『哲学の改造』

先人がいろいろと考えてきた、模索して来た、単に技術、科学の細部だけでなく、道徳とは何か、何が善いことなのかを突き詰めて考えたそれぞれの人物の著作に触れて、「理解する」とは?「真理」とは?ということについて考えさせられました。

カント『道徳形而上学の基礎づけ』
カントの「人を手段としてだけではなく、目的そのものとして扱え」(つまりその人が存在することこそが目的)という言も、他の人と関わる上で重要な概念だと思いました。「部下や学生を手段としてだけではなく、尊厳のある存在として扱い、彼らの存在こそが目的であるような行為をせよ」。これは、企業が従業員を人「材」としてのみ見ること、また従業員が自分たちを人「材」としてのみ捉えること両方に対しての批判だと考えました。

カントは、「もしXXならばYYをせよ」(仮言命法)ではなくて、「いかなる場合でもYYをせよ」(定言命法)で、道徳を表したかった。その試行がこの著作である、そうな。道徳を突き詰めて一つの法則にできないかとするところは、数学のようなアプローチだなと思いました。

デューウィ『哲学の改造』
デューウィの「自然を支配する」概念については、西洋式の、自然を征服しコントロールする思想が強いかなと思いました。一方で、治水事業や農業の発展に多分に寄与した面もあるとは思いますが。そして、共通の目的に向かって協力し合う、共同研究の概念もここで出てきていて、今では当たり前だけれどこうして先人が定義してその必要性を訴えてくれたからあるんだなと思いました。

「理解」について、「『理解した』と思い込むのは簡単だけれど、そう容易には、解らないぞ」と警鐘を鳴らしているのだろうなとも受け取りましたので、改めて思い直す良い機会でした。

自分がどういうふうであれば『善い』のかは、常に考え続けるべきもので、パスカルの『人は弱いが、考えることのできる存在である』という言に現れています。

プラトン『パイドロス』
魂は二頭の馬とその馭者で成り立っているという例えは分かりやすかった。二頭の馬はそれぞれ善いと悪いの動力であり、気概欲望である。そして馭者は理性である。と。二頭の馬はともに「何かを為したい」と突き動かす衝動で、馭者はそれを行っていいのか、考えて制御する理性である。気概・エネルギーも、無制限に発揮していいものではなく、ちゃんとコントロールして発揮すべきものだということの論拠になると思います。

11.26.2024

【世界・日本】

【世界・日本】のセッションでは、様々な国、様々な時代のテクストを扱いました。時系列めちゃくちゃですが、これが一発目、一日目の最初のセッションでした。

夏目漱石『現代日本の開化』
森鴎外『普請中』
内村鑑三『余は如何にして基督信徒となりし乎』
オルテガ『大衆の反逆』
孟子『孟子』

国際社会、歴史、資本主義まで考えさせられました。

夏目漱石『現代日本の開化』
森鴎外『普請中』
文明開化・西欧化が急速に進む日本を憂えていた明治の知識人。別の本で、『不機嫌の時代』というのもあるのだそう。急激な開化には賛否両論があった。でもそのおかげで植民地になることは免れた、のも事実だろうか。その後戦争に突き進んでしまったが。

森鴎外は、生涯、何らかの仮面を被っていた。役割を負っていた。医師としての役割、評論家としての役割、小説家としての役割、父としての役割。この時代、皆そうだったかもしれない。で、お墓にだけは、森鴎外としてではなく、森林太郎(本名)として入りたい、と言ったそうな。

欧米の脅威が迫る中で、近代化しなければならないと焦って開化を初めた日本。留学などした知識人ですらも、その目まぐるしさについていけていなかったのではないかと想像しました。『普請中』で表されている混沌とした状態は、森鴎外自らの、日本と西洋の狭間に立つ心中落ち着かない状態を、表している気がします。

オルテガ『大衆の反逆』
取ってつけたような西洋式の文化が次々と入ってきて、それをよく思っていなかった彼らと、それを何も考えず受け入れていた大衆の対比があり、オルテガの『大衆の反逆』に見事に繋がっていきました。刹那的・享楽的に生き、自らに重い課題を課さない大衆は現代でも同じことが言えると思います。政治を行えるのは、選ばれた能力のある少数者で、それは、他の分野でも同じ。歌が上手とか、足が速い、計算が速い、などと同じで、政治も能力の一つ。とすれば、オルテガの考え方は選民主義というよりは適材適所なのかなと。ある人は、ある分野では大衆で、違う分野ではエリートでありうる。考えてみればそれはそうか、ということ。ただ、政治は皆の生活に関係があることだから、皆が多少知っていなければならない。そういうものか。

政治をする能力がないのに政治の場に大衆がしゃしゃり出てきている、という問題提起があり、だからといって、独裁体制が上手く行かないことは歴史が示している。ただ、クリーンな「独裁者」であればよいのか、例えばシンガポールのリー・クアンユー首相は、独裁者と言われてもおかしくない権力を持っていたけれど、それを国民のために使い、強いシンガポールを作り上げました。そんな高潔な志を持った独裁者のことも考えに至り、リーダーの責任の重さと在り方について考えました。

フォロワーシップを持つと大衆ではなくなる、という言も興味深かった。「謙虚な人は〜」のくだり。専門家としてではなく、教わる・学ぶ側としての姿勢。

そして、SDGs、ウェルビーイング、など、英語がそのまま入ってきている現状にも思い至りました。意味がわかって使っているのかどうか。カタカナ語の氾濫に対する危惧と問題意識が共有されました。昔の人々の、英語やドイツ語を学び、熟考したうえで、「経済」や「社会」といった単語を日本語に翻訳した努力を思い起こしたいです。

内村鑑三『余は如何にして基督信徒となりし乎』
内村鑑三の、シーリー総長への陶酔の仕方は疑問に上がったところで、「ある人の人間性と、その人の信じているもの、考え、理想は別個のもの。(ヒトラーがいくら人格者であっても、彼の唱えたユダヤ人根絶は肯定されない)でも、それを混同する人もいる。ある人の人間性自体が、別の人の心の拠り所になることもある。」しかしながら、宗教は、人権侵害や戦争まで正当化出来る強烈な思想。丸ごと鵜呑みにしてはいけない…。世界では何らかの宗教を信じている人が殆どで、隣人を理解する、果ては、人を動かすことにも繋がるかと、リーダーシップ研修と絡めて思いました…。



11.25.2024

【ヒューマニティ】

英単語のHumanityとは、人間であること、人間性、博愛、慈悲、人情。そして人文学、人文科学(the Humanities)。

【ヒューマニティ】のセッションでは、文学作品を味わう経験ができました。

紫式部『源氏物語』
作者不明『平家物語』
シェイクスピア『ジュリアス・シーザー』
鈴木大拙『東洋的見方』
ベルクソン『道徳と宗教の二源泉』

平家物語の冒頭をCDで聴くことができたのは非常に興味深かったです。今日の感覚からするとゆっくりすぎると感じますが、当時のテンポ感に触れられました。ソローの、「落ち着いて簡素に生活を味わう」という思いとも関連があるかと思います。

源氏物語、平家物語は、物語ですが史実をもとにしていて、その時の貴族の教養レベルの高さ、運命に翻弄される昔の人々の悲哀を語っています。その時代と比較すると、今の日本はまだ自由がある。まだ問題は山積しているけれど、少しずつ進歩してはいる。とも思えました。

シェイクスピア『ジュリアス・シーザー』では、扇動されやすい群衆心理が描かれていました。オルテガの『大衆の反逆』でも論じられていましたが、「本来政治は、自らに高い目標と倫理性を課す少数者にしかできない。しかし、凡庸な大衆が、自らの凡庸であることを認め、自分に高い目標を課すこともなく、権利を主張し始めた。その結果、大衆が大衆のまま政治にも参画し国家の辿るべき道を危うくしている。」それが、まさに演劇の中で表現されているようでした。レトリック、雄弁術の有力さが描かれています。内村のシーリー総長への心酔とも繋がるかと思いますが、1.言っている内容と、2.言い方は、全く別物である。にも関わらず、いかに混同されやすいか、言い方が内容に影響を与えやすいかを示しています。政治においては大衆となりやすい自分、また、リーダーとしては、少数者であることを期待される自分、と、様々な場面に置き換えて考えることができました。

時代や場所によって異なる価値観(何を重要視するか)、また、何が実質的に可能だったのか、どんな物事が人々を動かしていたのか、等について考え、考察することができました。歴史を踏まえて、今、地球全体の未来のために何が出来るかを考えたとき、

1.違う世界に飛び込み、新しい物事を知って刺激を得る
2.別の文化の中でも、似た考えの人と繋がる。そして共同で問題解決に取り組む

ということを、大阪大学の堂目先生は有言実行されていて、著作を読んでみたいし、なにか一緒にやりたいなと思うようになりました。

鈴木大拙の『東洋的見方』では、西洋の二分式の考え方、数的考え方とは全く異なる、禅の精神について触れることができました。「私はいる、でも、いないかもしれない。」「甲は甲ではない、ゆえに甲である。」という、わけのわからない物言いをするところにこそ、禅の真髄があるのだという。それは、言葉の危うさを禅の教えが語っているとも言えるそう。二分割、数字で数えていき、細分化して身動きが取れなくなっていくこと、そして人間が機械のように扱われることへの危惧がある。

禅の世界は、有も無も、あらゆるものが渾然一体として、溶け合って、かつ互いに障りのない(円融無礙 えんゆうむげ)、分離されない状態で存在する世界。しかもそれは静寂不動ではなくて、石臼がぴょんぴょん飛び跳ねるような、全てが常に変化する世界であるらしい。そんな世界でこそ、人間の全貌は考えられるべきものであって、そうすることで人間らしい生涯が営まれるのだと、鈴木大拙は言っている、と私は捉えました。面白い…。「無は即ち有である」なんて、理屈では捉えられない所が面白いし、クセになる…。西洋的な二元論で語れないものもあるし、全てをそう簡単に「判った」と思ってしまいがちなことへの警鐘だとも思います。

ベルクソン『道徳と宗教の二源泉』は、第一次世界大戦から第二次世界大戦まで、愛国心、ナショナリズムが高揚し、国益のための戦争が頻発する中で、道徳をどう考えればいいのか論じていました。閉じた社会というのは、原始的で、防衛のために作った集団で、集団の中で上手くやっていくためのいわば生存のための義務的道徳が生ずる。集団内の相手には実は無関心で、利他主義の限界を表している。それに対し、開いた社会は人類全体を含むもので、集団内の相手の福祉に関心があり、道徳は自発的である。それはおそらく理想郷であるのだが、閉じた社会は閉じたり開いたりしながら、少しずつ拡大を続けていくしかない。このあとの後半部分では宗教や神秘性も論じられて私にはよく理解できなかったけれども…、「人類は自分の未来が自分自身次第だということを充分に知ってはいない」というところにはどきりとしました。

いやはやーー、濃いセミナーです。

もっと早く出会いたかったと思う古典がたくさん!!

11.24.2024

【社会・デモクラシー】

古典を読んで、対話するという合宿形式のセミナーに参加してきました。非常に有意義な3日間でした…。振り返りをば。

【社会・デモクラシー】セッションでは、以下の6冊の抜粋について対話しました。

ヒポクラテス『古い医術について』
ソロー『ウォールデン(森で生きる)』
ミル『女性の解放』
清沢洌『暗黒日記』
今道友信『エコエティカ』
リンカーン『ゲティスバーグ演説』

ヒューマニティに似たところがありましたが、セッションを通して、その時の世論とは異なる意見や考えを持って、それを迫害を恐れずに声に出して来た人物たちに深い尊敬を持つとともに、こういった人々がいて今の世界があると思いました。そして、未来に目を向けたとき、
・時流や『ふつう』であるものに流されて巻かれるのではなく、存在する問題に知らないふりをするのではなく、批判的な視点を持って見ることの重要さ。
・自分で考え、自分が倫理的、道徳的だと考える主義(コーズ)について、長期的な展望を持って主張していくことの大事さ。
・そんなのやってもどうにもならないよ、という諦観論や、目先の利益といったものに目をくらませられるのではなく。
など思い、自分が未来の世界市民のためにできることを一歩ずつやっていこうと思いました。

ミル『女性の解放』
原題は、Subjection of Women で、女性の隷従。訳者が希望を込めて、女性の解放としたのかもしれない…。ミルの、男性でありながら男女平等を論理的にフラットな目で擁護・正当化していて感銘を受けました。さらに、堂目先生の補足で、ミルが国会答弁で女性の権利論を展開して揶揄されて全く相手にされなかった、当時の学者としての名声を落とすことになっても、ミルは腹を括って活動し続けた、というエピソードにも感動しました。ジェンダーの問題には関心が高いつもりでいましたが、ミルについては経済学のイメージしかなく、この時代に、これほど論理的に、男性の立場から、確固たる信念を持って女性の解放を唱えていた人がいたとは。もっと早くこのテキストに出会うべきだったと反省しました。きっと、もっと昔に読むべきだった古典は山程あるのだろうなと思います。

ソロー『ウォールデン(森で生きる)』
Thoreauは森で簡素な暮らしをして、生活から余計なものを削ぎ落としてそこから得られるものを確かめたかった。優しい自然だけでなく災害を起こすような自然、食い合っている自然を目の当たりにして、元気を取り戻さなければならないと言っていた。電信で話し、時速30マイルで移動する必要がどこにあるだろうと言っていたが、今やアメリカの高速道路は時速75マイル、インターネットで瞬時に連絡が取れ、それゆえに、常にメールチェックに追われ、日本では東京から大阪まで日帰り出張なんていう慌ただしさである。「とにかく生活に落ち着きが無さすぎる」とのThoreauの指摘は現代でも通じる。大量消費社会へと変貌しつつある当時のアメリカに、疑義を唱えた一人だった。

Walden Woods というカフェが京都にあるのですが!まさかThoreauから来ていたとは!!今度行ったとき、由来を聞いてみよう。Thoreau が住んで思索を深めたWaldenの森のような存在にしたいという意図があったなら…なんと哲学的で粋なんだ!! Thoreau は、戦争に反対して人頭税を払わず、逮捕・投獄された。それは、不服従という形の抗議方法となり、人々に勇気を与えた。森の近所の人が人頭税を代わりに払ってくれて、獄中で過ごしたのは1日だけだったそう。

今道友信『エコエティカ』
今道友信氏は最近までご存命だった倫理学者・哲学者。技術の発展に伴った新しい倫理学を唱えました。具体的には、
「今までは、『目的』があって、それにかなう手段を選んでいた。例えば
生活するためのお金がほしい、であれば、友達に借りる、アルバイトする、行政に相談に行く、など。そこから、自分が実現できそうな手段を選ぶ。
一方、技術が発達した今、強大な『手段』が先に出てきてしまって、それを何に使うかの目的が後に考えられている。原子力が開発され、原爆が開発・使用されたり。原発が、危険性を顧みずに使用されたり。
そして、強大な手段を持つ主体が企業や団体になってしまったために、それを使う目的が、平和や安全、人道的なものではなく、組織の存続や利益となってしまっている。そしてその責任の所在が明確でない。倫理的主体の複数化が生じている。東日本大震災および原発事故はまさにそれで、企業の存続、自己保身が最優先になった。」と。

手段が先にあり、例えばインターネットやSNSという手段が先にあり、そこでバズって荒稼ぎし、そこから自分の主義主張を発信していくというやり方もできるようになった(選挙、広告などマネーゲームである)。そこには手段から始まった目的の危うさがあります。AIも今や、強力な手段といえます。

また、手段が先に来ることによって、手段によって目的が限定されることになった。それは可能性を狭めることになる。もはや、「神に近づく」とか、「平和を達成する」といったような、俗を離れた目的は考えつかなくなる。それも自由な思想を妨げる。」と。


セミナー会場の庭。自然豊かで静かなところ。俗世間から隔絶された感がある…。そんな場所で、対話は進んでいきます。眼の前の道路は紅葉した大きな木々の並ぶ並木道で、朝散歩したら、初冬の朝の澄んだ空気と、土と葉の折り混ざったなんとも言えない森の香りがして、「あー、Thoreauは森でこんな気分を味わっていたのだな」と思いました…!