その分、皆でああでもないこうでもないと議論できてとても楽しかったです。
プラトン『パイドロス』
アリストテレス『形而上学』
パスカル『パンセ』
カント『道徳形而上学の基礎づけ』
デューウィ『哲学の改造』
先人がいろいろと考えてきた、模索して来た、単に技術、科学の細部だけでなく、道徳とは何か、何が善いことなのかを突き詰めて考えたそれぞれの人物の著作に触れて、「理解する」とは?「真理」とは?ということについて考えさせられました。
カント『道徳形而上学の基礎づけ』
カントの「人を手段としてだけではなく、目的そのものとして扱え」(つまりその人が存在することこそが目的)という言も、他の人と関わる上で重要な概念だと思いました。「部下や学生を手段としてだけではなく、尊厳のある存在として扱い、彼らの存在こそが目的であるような行為をせよ」。これは、企業が従業員を人「材」としてのみ見ること、また従業員が自分たちを人「材」としてのみ捉えること両方に対しての批判だと考えました。
カントは、「もしXXならばYYをせよ」(仮言命法)ではなくて、「いかなる場合でもYYをせよ」(定言命法)で、道徳を表したかった。その試行がこの著作である、そうな。道徳を突き詰めて一つの法則にできないかとするところは、数学のようなアプローチだなと思いました。
デューウィ『哲学の改造』
デューウィの「自然を支配する」概念については、西洋式の、自然を征服しコントロールする思想が強いかなと思いました。一方で、治水事業や農業の発展に多分に寄与した面もあるとは思いますが。そして、共通の目的に向かって協力し合う、共同研究の概念もここで出てきていて、今では当たり前だけれどこうして先人が定義してその必要性を訴えてくれたからあるんだなと思いました。
「理解」について、「『理解した』と思い込むのは簡単だけれど、そう容易には、解らないぞ」と警鐘を鳴らしているのだろうなとも受け取りましたので、改めて思い直す良い機会でした。
自分がどういうふうであれば『善い』のかは、常に考え続けるべきもので、パスカルの『人は弱いが、考えることのできる存在である』という言に現れています。
プラトン『パイドロス』
魂は二頭の馬とその馭者で成り立っているという例えは分かりやすかった。二頭の馬はそれぞれ善いと悪いの動力であり、気概と欲望である。そして馭者は理性である。と。二頭の馬はともに「何かを為したい」と突き動かす衝動で、馭者はそれを行っていいのか、考えて制御する理性である。気概・エネルギーも、無制限に発揮していいものではなく、ちゃんとコントロールして発揮すべきものだということの論拠になると思います。
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