【世界・日本】のセッションでは、様々な国、様々な時代のテクストを扱いました。時系列めちゃくちゃですが、これが一発目、一日目の最初のセッションでした。
夏目漱石『現代日本の開化』
森鴎外『普請中』
内村鑑三『余は如何にして基督信徒となりし乎』
オルテガ『大衆の反逆』
孟子『孟子』
国際社会、歴史、資本主義まで考えさせられました。
夏目漱石『現代日本の開化』
森鴎外『普請中』
森鴎外は、生涯、何らかの仮面を被っていた。役割を負っていた。医師としての役割、評論家としての役割、小説家としての役割、父としての役割。この時代、皆そうだったかもしれない。で、お墓にだけは、森鴎外としてではなく、森林太郎(本名)として入りたい、と言ったそうな。
欧米の脅威が迫る中で、近代化しなければならないと焦って開化を初めた日本。留学などした知識人ですらも、その目まぐるしさについていけていなかったのではないかと想像しました。『普請中』で表されている混沌とした状態は、森鴎外自らの、日本と西洋の狭間に立つ心中落ち着かない状態を、表している気がします。
オルテガ『大衆の反逆』
取ってつけたような西洋式の文化が次々と入ってきて、それをよく思っていなかった彼らと、それを何も考えず受け入れていた大衆の対比があり、オルテガの『大衆の反逆』に見事に繋がっていきました。刹那的・享楽的に生き、自らに重い課題を課さない大衆は現代でも同じことが言えると思います。政治を行えるのは、選ばれた能力のある少数者で、それは、他の分野でも同じ。歌が上手とか、足が速い、計算が速い、などと同じで、政治も能力の一つ。とすれば、オルテガの考え方は選民主義というよりは適材適所なのかなと。ある人は、ある分野では大衆で、違う分野ではエリートでありうる。考えてみればそれはそうか、ということ。ただ、政治は皆の生活に関係があることだから、皆が多少知っていなければならない。そういうものか。
政治をする能力がないのに政治の場に大衆がしゃしゃり出てきている、という問題提起があり、だからといって、独裁体制が上手く行かないことは歴史が示している。ただ、クリーンな「独裁者」であればよいのか、例えばシンガポールのリー・クアンユー首相は、独裁者と言われてもおかしくない権力を持っていたけれど、それを国民のために使い、強いシンガポールを作り上げました。そんな高潔な志を持った独裁者のことも考えに至り、リーダーの責任の重さと在り方について考えました。
フォロワーシップを持つと大衆ではなくなる、という言も興味深かった。「謙虚な人は〜」のくだり。専門家としてではなく、教わる・学ぶ側としての姿勢。
そして、SDGs、ウェルビーイング、など、英語がそのまま入ってきている現状にも思い至りました。意味がわかって使っているのかどうか。カタカナ語の氾濫に対する危惧と問題意識が共有されました。昔の人々の、英語やドイツ語を学び、熟考したうえで、「経済」や「社会」といった単語を日本語に翻訳した努力を思い起こしたいです。
内村鑑三『余は如何にして基督信徒となりし乎』
内村鑑三の、シーリー総長への陶酔の仕方は疑問に上がったところで、「ある人の人間性と、その人の信じているもの、考え、理想は別個のもの。(ヒトラーがいくら人格者であっても、彼の唱えたユダヤ人根絶は肯定されない)でも、それを混同する人もいる。ある人の人間性自体が、別の人の心の拠り所になることもある。」しかしながら、宗教は、人権侵害や戦争まで正当化出来る強烈な思想。丸ごと鵜呑みにしてはいけない…。世界では何らかの宗教を信じている人が殆どで、隣人を理解する、果ては、人を動かすことにも繋がるかと、リーダーシップ研修と絡めて思いました…。
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