12.24.2024

当たらない牡蠣を食べる会と、商業化されたクリスマス

完全養殖でウイルスが入らないようにしている牡蠣だそうで… お誘いしてもらいました! 牡蠣祭りになった! こんなに牡蠣を食べたことはなかったなー 以前オーストラリアで、名物だから、って言われて、生で食べさせてもらったり、キルパトリックという焼いてソースつけたのとかも食べさせてもらったり。生より加熱のほうが美味しかったな〜 と、そんな思い出が蘇ってきたり。 




で、阪急うめだでは、吹き抜けのとこにクリスマスツリーやらマーケットやらができていて。




毎時0分には、仕掛け時計の要領でツリーから音楽と光が。凝ってるなぁ〜と、土曜日の喧騒の中ぽけーっと眺める。そしてマーケット…人混みすごい… オーナメント、紅茶、お菓子、などなど… もはや宗教行事の影はなく、完全にマーケティングの餌食になっているというか…ただのイベント。資本主義め、というかなんというか。と、すごーく客観的な目で見ていました。経済ってこうやって回ってるんだなと思う一方で、ストレス解消のための消費をしなくてよくなったな、と振り返る。

田舎に住んでた時は、都会に出て何かしたい!何かせねば!と半ば脅迫的に思っていた。都会に出るのは嬉しかったし、何もない小さな町で住んで働いているストレスを解消せねばならなかった。それが今、住みたい町に住んで人間関係にも恵まれて、低ストレスで働いていると、こういうストレス解消のための消費をしなくなって(節約意識が向上したのもあるけど)、こっちの生活のほうが遥かに私の性質に合ってる…と感じる。。いつどうなっても後悔のないように過ごそう。一日一日、もう一度この日をやり直すとしても同じ選択をする、と言えるように。なんて考える年の瀬。


12.21.2024

「世界は、夢組と叶え組でできている」/桜林直子

やりたいことがはっきりしていてそれに突き進む「夢組」と、夢組がそれを叶えるのをサポートして現実化する「叶え組」がいる。というお話。自分の人生の段階によっても、場所(職場、家庭)によっても、自分が夢組か叶え組なのかは違うかもしれない。


◆やりたいことがない、というのも全然あり。
やりたいことがあって、カリスマがあって、突き進んでいく人たちばかりがもてはやされるが、おんな夢組ではなくても、自分ではやりたいことが別になくても、この人の助けになりたい、という気持ちで仕事をする叶え組の人たちもいる。それぞれの特徴なだけであって、優劣とかいい悪いとかはない。

◆ガマンや、やりたいことを抑えるフタがある場合は外していく

しかし、やりたいことがない、とか、自分が欲しいものがわからない、というのは、自分の欲がわかっていない、これが食べたい、これが欲しい、これをしたい、など、自分がどう感じるかをずっと閉じ込めて来た人は、自分の欲を分かっていないのだとも筆者は言う。

小さい頃、生きていくために、大人・環境に従って、ガマンをしてきた人。であれば、そのガマンはもう手放していい。もっと自由に、自分が今どこにいて、何をして、どんな人と付き合って、どんなものが欲しいのか、素直に少しずつ、自分の心の声を聞いてみるといいんじゃないかと思う。

私は自分の欲しいものがはっきりしているときと、そうでもないときがある。留学はしたかった。大学院も行きたかった。ので行った。それ以外の選択肢はない、と思っていたほど。

一方で、専攻とか、人間関係とか、食べるものとか、買い物とかは、迷いまくり。そんなにこだわりがないところ、なのかもしれない。

◆自分のサイズと持ち物から、やれることを見つける

自分のサイズ=自分の凸凹を把握する。譲れない条件や、ほっとくとこうなる、という性格や、変えられない環境。嘘をつかずに、自分のわがままを全て出し切る。例えば彼女はシングルマザーなので、仕事をする時間を固定したくない、18時以降は働かない、夏は子供と一緒に夏休みを取りたいから働かない。見えない部分があるとフリーズして機能しない。

自分の持ち物=出来ること。こうなりたいという願望は一切入れず、自分が今もっているもの。解決力、機嫌よく働く、おせっかい、人使いが荒い、それまで経験してきたお菓子業界の仕事も一つ一つ。誰にでも出来る仕事だとしても、すべて「持ち物」の中に入れ、この中から出来ることしかやらない、と決めたそう。「できたらいいな」「やってみたいな」は選ばない。

で、このサイズと持ち物から、家の間取りと家具の配置を図面の上で何度も試すように、組み合わせて、こうしたらいいか、ああしたらいいか、とプランを練った。これは、八木仁平さんの、好きと得意を組み合わせていろいろな職業を考えてみる、に似ている。「自分の持ち物を知っていると、他人の持ち物と組み合わせて役に立つ方法も見える。持ち物にないものを求められて、「役に立たない」と落ち込まなくて済む」もキモ。ここに協働の意義がある。

◇生存者バイアス

これについてお友達と話したら、「シングルマザーになった。じゃあ起業しようと言ったって、そう簡単ではない。全ての片親が、彼女のように成功できるかといえばそうではないかも。起業した会社の殆どは潰れる、生き残るのは一部だけ。まして、自分の持てる全ての時間、全ての労力を投入できない子育て期にあっては。彼女は会社員時代に学んだことプラス、きっともともと起業家の素質があった。この本には『生存者バイアス』もある。」と考えが広がり、私にはない視点だったので目からウロコ! 確かにー。とても勉強になった。

◆時間は人生

「やりたいこと」の他に、「自分の時間をどう使うか」を考えないといけない。30代になると仕事・家事・育児・趣味、と時間が足りなくなってくるので、何に時間を割り振るか、自分のキャパの中で、時間割を決めて、それを「やりたいこと」としたらよい。人によっても、人生の段階によっても、時間割は違ってくる。仕事の割合が高かったり、子育ての割合が高かったり。

人生は死ぬまでの時間なのだから、何をするか、誰といるか、が全て。

◆やりたいことリスト100を書く

やりたいことを100個書くことで、自分の欲を抑圧しているフタを観察し、外すことが出来る。最も大きなフタは、「幸せになりたい」という欲を抑える、「幸せになってはいけない」というフタ。交流分析の禁止令にも出てくる。まさに。

『「やりたいことを見つける」とは、運命のたったひとつのなにかに突然バッタリ出会うのではなくて、小さなよろこびや自分がアガることを見つけて、それをガマンしないで、自分をよろこばせ続けていたら、気がつくとすでに手の中にあるようなものなのかもしれない。』

◆人生には波がある

  • 自分のやりたいことをやるときと、人のためにやるとき
  • やる気があるときと、ないとき
  • 過去を振り返るときと、未来を見るとき
  • 人に会いたいときと、一人でいたいとき
  • コンテンツを浴びたいとき(インプット)と、創作したい(アウトプット)とき
  • 力を入れるときと、力を抜くとき
  • 都会がちょうどいいときと、自然を求めるとき
  • 全部が楽しいときと、全部が怖いとき
  • 自信があるときと、自信がもてないとき
  • 自分の内側にもぐりこむときと、外側から俯瞰で見るとき
時間が経ってから眺めると、出来事の意味が変わることもある。これは本当にある。
休んだ方がいいときもある。一時的に止まっているように見えても、全体の波としての動きを見れば、じき戻るから、と思える。「今は、そういう時期だ。」と思えばいいのだ。

◆自分のためだけになっていないか、人のためだけになっていないか

人のためだけになると、自分のことが疎かになるし、逆も然り。バランス感が重要。人のため、と思いながら、承認や感謝がほしい、とか思ってしまうと、「こんなにしてあげてるのに!」となったりするし。

12.20.2024

「諸君ヨ、人一人ハ大切ナリ」 

京都検定を受けに行った、同志社大学新町キャンパス。


「諸君ヨ、人一人ハ大切ナリ」と、正面玄関入ってすぐのところに記されてあり、新島襄の思いをしかと受け取りました…!

自分もそうだけど、何かしないと、何か尽くさないと、ここにいてはいけないんじゃないか、ここにいる資格はないんじゃないか、そんな深層心理が働きがちな気がします。

だからこそ、人権思想って本当に偉大だなと思う。

ひとりひとりが、

大切なのです。

なにもできなくてもいい。
特別なことをしなくてもいい。


人権思想が出るまでは、個人の存在は生物の生存(種の保存)とか、家柄、血統の保存とか、国の繁栄のためとか、そういう全体の存続のためでしかなかった。つまり、個人個人の存在は「目的」ではなく、「手段」だった。

これに対し、その人の存在、その人の幸福じたいが目的である、という考え方が人権思想なのだと思う。

人類の発展のためとか人口減を食い止めるためとか血筋を途絶えさせないためとか、そんな、個人自体をないがしろにした目的達は、ただ個人を利用しようとしているだけ、本末転倒なのです。

私たち個人が、義務感も劣等感もなく純粋な気持ちから、その目的のために身を捧げる、と。それが自分自身の幸せだ、と決心したのではない限り、そんな全体主義的な目的には賛同しなくていいし、スルーしとけばいいのです。

やりたいことを

やりたい時に

すきなように

すきなだけ

やる人生を送りたい。

自分に正直に。

無理せず。


何かに自分の時間と労力を捧げるとき、何かに尽くしたい衝動に駆られたとき、立ち止まって考えたいです。

なんで私はそれをやりたいと思うのか?

純粋にそれが好きだから?

それとも

それをしないと、集団に受け入れてもらえないから、というあせり、不安、恐れから?


12.19.2024

吉田界隈さんぽ。

南禅寺から哲学の道、吉田神社まで京都観光。疎水や紅葉や山、寺、狛蛇など、動物たちがたくさんいる大豊神社など、盛りだくさん!天気もよく最高だった!!

Sightseeing in Kyoto from Nanzen-ji Temple to the Philosopher's Path and Yoshida Shrine. So much to enjoy—like the canal, autumn leaves, mountains, temples, and Ootoyo Shrine, which has many animal statues like guardian snakes! The weather was perfect, making it an amazing day!













12.18.2024

書き物グループでの忘年会

書き物グループでも忘年会しました〜 スペシャル版!場所提供してくださったオーナーさんに感謝〜優しすぎる〜 そして、パーティーにちょっと加わってくれて、一緒に飲んだりした! このコミュニティも貴重である…!




12.17.2024

忘年会&歓送迎会

いろいろ兼用のパーティー!

新年会したのがついこの間のようだけど、あれから1年近くたったのかーと感慨深くなりました。

パーティー料理が次から次へと出来てきて…人数が多いと手際が良い!メンバーそれぞれの強〜い個性がいかんなく発揮されて、とても面白い会だった…

同じ波長の人たちが集まっている〜というのは、ほんとうにあると思う。





12.04.2024

東寺ライトアップ!

家から近いっていいなーー

正式名称は教王護国寺。弘法大師空海が賜った。密教道場。両界曼荼羅の世界を実物の仏像で体現した大変規模の大きな世界を表している、講堂。重要文化財。空海の命日である21日には、弘法市が開かれて毎月賑わうそう。

金堂は、薬師如来の下に十二神将、横は日光・月光菩薩が囲む。国宝。

五重の塔も国宝。1644年、徳川家光の寄進によって建てられた、55メートルの、現存する木造の塔としては日本最古。












11.30.2024

神宮カフェ

神宮の鳥居眼の前。非常に良い雰囲気だった!

パスタ、ラザニア、キッシュなど。キッシュは大人気らしく売り切れていたーー! サーモンキッシュ美味しそうだったな。また次回!

陶芸品ギャラリーや、坪庭まであり、素敵だった。







11.29.2024

リーダーシップセミナーとしての感想

自身がリーダーシップをさらに発揮するうえで、どのような課題や問題意識を持ったか。

同じテクストを読んでも多様な解釈や意見が出る。もはや、男女の二元論、国籍での一括り(「日本人は〜」)、年齢での一般化などは不可能になっている。と感じました。
  • 多様性の包括、
  • 性急に結論を出さない、
  • 自分自身の倫理観に裏打ちされた長期的なビジョンを持つ、
  • 折々に古典に触れ、多種多様な角度から物事を観る、
  • 人の話を先入観無しによく聴く、
  • 評価をせずに、ただありのままに受け止める、
  • 常に学び続ける、謙虚な姿勢を持つ
などを忘れないようにしたいです。

教養を深める意味でも古典を読めて非常に勉強になったし、他の参加者の方々の意見や捉え方を聴いて理解する過程も非常に重要で有意義なものでした。

業務に忙殺される日々を離れ、自然豊かなけいはんなの地で古典に向き合って対話する機会を持てて贅沢でした。人間的に幅が広がった気がしますし、生涯学んでいく謙虚な姿勢を思い起こすことができました。日本の教育は知識偏重し過ぎているので、このような、思考をアウトプットする形式のセミナーを多くの人に受けていただきたいです。ドイツとかフランスとかの教育は、考えさせて小論文を山程書かせる形式らしいので。その分、細部までは記憶する時間はないかもしれないけど、批判的、論理的、自律的に考える力を身につける方がよっぽど大事じゃないかなと思います!


11.28.2024

哲学合宿で得た一番大きなもの Lessons learned

この二泊三日の哲学合宿で得た一番大きなものはおそらく…

このセミナーがなければ出会わなかったような、業界や職種の全く違うリーダークラスの人々との出会い。一流企業の一流人材の所作、考え方、これまでの経歴、すべてが勉強になりました。

特に、人相手の仕事を長年やっている人は、語彙力、話し方、雄弁さ、瞬発力、人の話を聴いて理解する力など、口頭言語に関する能力が高い! 当然のことながら、すごい分化しているというか、モノ相手の仕事を長年やっている私とは全然違う能力が育っているんだなーと。私が瞬発力に課題がある…のは、鍛えていないのだからしょうがない。発言のたびに心臓がドキドキする、臨戦態勢になる、あらゆる悪いことを想定してしまう、というのは、場数を踏んでいないからだし、よく知らない人、多数の人とのコミュニケーションが心理的負担になっているからである。と、冷静に自分を見ていた。ここは、「自分に無いものを持っていて羨ましい」、ではなくて、「モノ相手の仕事、自分に合った仕事ができていてよかった…」と思えたので、だいぶ自己受容が進んでいる。

なぜならば、別に一流企業で一流のことしていなくても、人は存在しているだけでいいのだから。

カントも言っていたけど、人間の存在そのものは目的であって、手段ではないのだから。(と、カントを読んだ今ならそれを引用しつつ言える!)

やはり鍛えられている幹部候補生は違うなぁ…と思いました。ただ、彼らの話を聞くと、「失敗して怒られる」とか、「投資分回収できないよ、どうするの?」と言われる、「仕事が終わらず土日も持ち帰ってやっている」、「何人もの部下のマネジメントに追われる」など、企業人としてやはり大変なこともたくさん。ストレスも多いし、通勤も大変だ。自分は…心の余裕とコントロール感を持って、自分が心地良いような形で社会に貢献して、生活するためのお金を稼ぎたい、とも思った。

例えて言うと、趣味でテニスをしている身で、オリンピックレベルの一流テニス選手を見た気分。彼らの能力も素晴らしいし活躍は華々しいのだが、彼らの努力量、忍耐、苦難、などを考えると、やはりそこまでやろうと思える人は一握りだし、やれる人もわずかだと思う。趣味レベルで充分なのに、オリンピックに出なければ!と意気込んで心身をすり減らしてしまっては元も子もない…。

こういう出来る人たちを間近で見てもう一つ思ったのは、自分を癒すとか、トラウマがとか、というのはフェーズ1である。それももちろん大事。で、それを遥かに(おそらく)乗り越えているだろう職業人の皆さんに会って、奮い立たせられました、ある意味。「過去は過去。コントロールできなかった。たくさん傷ついた。それはそれ。その上で、自由な一個人として、自分が成し遂げられることは何か。今の時代の問題について、自分ができることは何か。」と問う。それがまさに人生のフェーズ2で、そのフェーズ2に行きたいと思いました!!

ホテルからの朝焼け。朝6時半に起きて、朝散歩しつつ、古典を予習するという、高校生みたいな健康的な生活をしていました…!


The most significant thing I gained from this three-day philosophy retreat was probably...

Meeting leaders from different industries and professions—people I never would have encountered without this seminar. Observing the demeanor, thought processes, and career paths of top talent from leading companies was an incredible learning experience.

Particularly striking was how people who have worked with others for many years possess exceptional verbal skills—vocabulary, eloquence, quick thinking, and the ability to listen and understand others’ perspectives.  Their verbal abilities are highly refined, reflecting the nature of their work.  In contrast, as someone who has worked with "things" for many years, I realized that I’ve developed entirely different skills.  For example, my quick-thinking abilities are lacking, but that’s not surprising since I haven’t trained them.  My heart races every time I speak up, putting me into a fight-or-flight mode where I imagine all the worst-case scenarios.  This anxiety stems from a lack of experience in these settings and the psychological burden of communicating with unfamiliar or numerous people.  I observed myself calmly during the retreat, acknowledging these weaknesses. 

However, instead of feeling envy for what I lack, I thought, "I’m glad I’ve been able to work with things, a type of work that suits me."  This realization marked significant progress in self-acceptance.

After all, as Kant pointed out, humans have intrinsic value simply by existing.  We are ends in ourselves, not means to an end. (Having read Kant now, I can confidently reference him!)

That said, it’s undeniable that these trained future executives stand out.  Listening to their stories, though, I realized their lives aren’t without challenges: being scolded for mistakes, facing pressure to recover investments, bringing work home on weekends, or managing multiple subordinates.  Corporate life clearly involves considerable stress, long commutes, and other hardships.  Reflecting on this, I felt reaffirmed in my desire to live with a sense of mental freedom and control—contributing to society in ways that feel comfortable to me while earning enough to support my lifestyle.

It’s like being a casual tennis player watching Olympic-level athletes. Their skills and accomplishments are dazzling, but the sheer amount of effort, endurance, and hardship they endure is unimaginable. Only a select few have the drive and capability to go that far.  For me, playing at a hobby level is sufficient.  Pushing myself to the point of emotional and physical exhaustion by aiming for the Olympics would defeat the purpose.

Another realization I had while observing these highly capable individuals up close is that healing oneself or addressing personal trauma is truly "Phase 1" of life.  That’s important, of course.  But meeting these professionals—who have likely moved far beyond that phase—was deeply inspiring in a way. 

They seemed to embody the mindset of: "The past is the past.  I couldn’t control it, and I was hurt deeply.  But that’s that.  As a free individual, what can I achieve now?  What can I contribute to addressing the problems of our time?"  That’s the essence of what I see as "Phase 2" of life, and I now feel motivated to step into that phase myself!

11.27.2024

【認識】

認識のセッションは一番とっつきにくかったですねーー。
その分、皆でああでもないこうでもないと議論できてとても楽しかったです。

プラトン『パイドロス』
アリストテレス『形而上学』
パスカル『パンセ』
カント『道徳形而上学の基礎づけ』
デューウィ『哲学の改造』

先人がいろいろと考えてきた、模索して来た、単に技術、科学の細部だけでなく、道徳とは何か、何が善いことなのかを突き詰めて考えたそれぞれの人物の著作に触れて、「理解する」とは?「真理」とは?ということについて考えさせられました。

カント『道徳形而上学の基礎づけ』
カントの「人を手段としてだけではなく、目的そのものとして扱え」(つまりその人が存在することこそが目的)という言も、他の人と関わる上で重要な概念だと思いました。「部下や学生を手段としてだけではなく、尊厳のある存在として扱い、彼らの存在こそが目的であるような行為をせよ」。これは、企業が従業員を人「材」としてのみ見ること、また従業員が自分たちを人「材」としてのみ捉えること両方に対しての批判だと考えました。

カントは、「もしXXならばYYをせよ」(仮言命法)ではなくて、「いかなる場合でもYYをせよ」(定言命法)で、道徳を表したかった。その試行がこの著作である、そうな。道徳を突き詰めて一つの法則にできないかとするところは、数学のようなアプローチだなと思いました。

デューウィ『哲学の改造』
デューウィの「自然を支配する」概念については、西洋式の、自然を征服しコントロールする思想が強いかなと思いました。一方で、治水事業や農業の発展に多分に寄与した面もあるとは思いますが。そして、共通の目的に向かって協力し合う、共同研究の概念もここで出てきていて、今では当たり前だけれどこうして先人が定義してその必要性を訴えてくれたからあるんだなと思いました。

「理解」について、「『理解した』と思い込むのは簡単だけれど、そう容易には、解らないぞ」と警鐘を鳴らしているのだろうなとも受け取りましたので、改めて思い直す良い機会でした。

自分がどういうふうであれば『善い』のかは、常に考え続けるべきもので、パスカルの『人は弱いが、考えることのできる存在である』という言に現れています。

プラトン『パイドロス』
魂は二頭の馬とその馭者で成り立っているという例えは分かりやすかった。二頭の馬はそれぞれ善いと悪いの動力であり、気概欲望である。そして馭者は理性である。と。二頭の馬はともに「何かを為したい」と突き動かす衝動で、馭者はそれを行っていいのか、考えて制御する理性である。気概・エネルギーも、無制限に発揮していいものではなく、ちゃんとコントロールして発揮すべきものだということの論拠になると思います。

11.26.2024

【世界・日本】

【世界・日本】のセッションでは、様々な国、様々な時代のテクストを扱いました。時系列めちゃくちゃですが、これが一発目、一日目の最初のセッションでした。

夏目漱石『現代日本の開化』
森鴎外『普請中』
内村鑑三『余は如何にして基督信徒となりし乎』
オルテガ『大衆の反逆』
孟子『孟子』

国際社会、歴史、資本主義まで考えさせられました。

夏目漱石『現代日本の開化』
森鴎外『普請中』
文明開化・西欧化が急速に進む日本を憂えていた明治の知識人。別の本で、『不機嫌の時代』というのもあるのだそう。急激な開化には賛否両論があった。でもそのおかげで植民地になることは免れた、のも事実だろうか。その後戦争に突き進んでしまったが。

森鴎外は、生涯、何らかの仮面を被っていた。役割を負っていた。医師としての役割、評論家としての役割、小説家としての役割、父としての役割。この時代、皆そうだったかもしれない。で、お墓にだけは、森鴎外としてではなく、森林太郎(本名)として入りたい、と言ったそうな。

欧米の脅威が迫る中で、近代化しなければならないと焦って開化を初めた日本。留学などした知識人ですらも、その目まぐるしさについていけていなかったのではないかと想像しました。『普請中』で表されている混沌とした状態は、森鴎外自らの、日本と西洋の狭間に立つ心中落ち着かない状態を、表している気がします。

オルテガ『大衆の反逆』
取ってつけたような西洋式の文化が次々と入ってきて、それをよく思っていなかった彼らと、それを何も考えず受け入れていた大衆の対比があり、オルテガの『大衆の反逆』に見事に繋がっていきました。刹那的・享楽的に生き、自らに重い課題を課さない大衆は現代でも同じことが言えると思います。政治を行えるのは、選ばれた能力のある少数者で、それは、他の分野でも同じ。歌が上手とか、足が速い、計算が速い、などと同じで、政治も能力の一つ。とすれば、オルテガの考え方は選民主義というよりは適材適所なのかなと。ある人は、ある分野では大衆で、違う分野ではエリートでありうる。考えてみればそれはそうか、ということ。ただ、政治は皆の生活に関係があることだから、皆が多少知っていなければならない。そういうものか。

政治をする能力がないのに政治の場に大衆がしゃしゃり出てきている、という問題提起があり、だからといって、独裁体制が上手く行かないことは歴史が示している。ただ、クリーンな「独裁者」であればよいのか、例えばシンガポールのリー・クアンユー首相は、独裁者と言われてもおかしくない権力を持っていたけれど、それを国民のために使い、強いシンガポールを作り上げました。そんな高潔な志を持った独裁者のことも考えに至り、リーダーの責任の重さと在り方について考えました。

フォロワーシップを持つと大衆ではなくなる、という言も興味深かった。「謙虚な人は〜」のくだり。専門家としてではなく、教わる・学ぶ側としての姿勢。

そして、SDGs、ウェルビーイング、など、英語がそのまま入ってきている現状にも思い至りました。意味がわかって使っているのかどうか。カタカナ語の氾濫に対する危惧と問題意識が共有されました。昔の人々の、英語やドイツ語を学び、熟考したうえで、「経済」や「社会」といった単語を日本語に翻訳した努力を思い起こしたいです。

内村鑑三『余は如何にして基督信徒となりし乎』
内村鑑三の、シーリー総長への陶酔の仕方は疑問に上がったところで、「ある人の人間性と、その人の信じているもの、考え、理想は別個のもの。(ヒトラーがいくら人格者であっても、彼の唱えたユダヤ人根絶は肯定されない)でも、それを混同する人もいる。ある人の人間性自体が、別の人の心の拠り所になることもある。」しかしながら、宗教は、人権侵害や戦争まで正当化出来る強烈な思想。丸ごと鵜呑みにしてはいけない…。世界では何らかの宗教を信じている人が殆どで、隣人を理解する、果ては、人を動かすことにも繋がるかと、リーダーシップ研修と絡めて思いました…。



11.25.2024

【ヒューマニティ】

英単語のHumanityとは、人間であること、人間性、博愛、慈悲、人情。そして人文学、人文科学(the Humanities)。

【ヒューマニティ】のセッションでは、文学作品を味わう経験ができました。

紫式部『源氏物語』
作者不明『平家物語』
シェイクスピア『ジュリアス・シーザー』
鈴木大拙『東洋的見方』
ベルクソン『道徳と宗教の二源泉』

平家物語の冒頭をCDで聴くことができたのは非常に興味深かったです。今日の感覚からするとゆっくりすぎると感じますが、当時のテンポ感に触れられました。ソローの、「落ち着いて簡素に生活を味わう」という思いとも関連があるかと思います。

源氏物語、平家物語は、物語ですが史実をもとにしていて、その時の貴族の教養レベルの高さ、運命に翻弄される昔の人々の悲哀を語っています。その時代と比較すると、今の日本はまだ自由がある。まだ問題は山積しているけれど、少しずつ進歩してはいる。とも思えました。

シェイクスピア『ジュリアス・シーザー』では、扇動されやすい群衆心理が描かれていました。オルテガの『大衆の反逆』でも論じられていましたが、「本来政治は、自らに高い目標と倫理性を課す少数者にしかできない。しかし、凡庸な大衆が、自らの凡庸であることを認め、自分に高い目標を課すこともなく、権利を主張し始めた。その結果、大衆が大衆のまま政治にも参画し国家の辿るべき道を危うくしている。」それが、まさに演劇の中で表現されているようでした。レトリック、雄弁術の有力さが描かれています。内村のシーリー総長への心酔とも繋がるかと思いますが、1.言っている内容と、2.言い方は、全く別物である。にも関わらず、いかに混同されやすいか、言い方が内容に影響を与えやすいかを示しています。政治においては大衆となりやすい自分、また、リーダーとしては、少数者であることを期待される自分、と、様々な場面に置き換えて考えることができました。

時代や場所によって異なる価値観(何を重要視するか)、また、何が実質的に可能だったのか、どんな物事が人々を動かしていたのか、等について考え、考察することができました。歴史を踏まえて、今、地球全体の未来のために何が出来るかを考えたとき、

1.違う世界に飛び込み、新しい物事を知って刺激を得る
2.別の文化の中でも、似た考えの人と繋がる。そして共同で問題解決に取り組む

ということを、大阪大学の堂目先生は有言実行されていて、著作を読んでみたいし、なにか一緒にやりたいなと思うようになりました。

鈴木大拙の『東洋的見方』では、西洋の二分式の考え方、数的考え方とは全く異なる、禅の精神について触れることができました。「私はいる、でも、いないかもしれない。」「甲は甲ではない、ゆえに甲である。」という、わけのわからない物言いをするところにこそ、禅の真髄があるのだという。それは、言葉の危うさを禅の教えが語っているとも言えるそう。二分割、数字で数えていき、細分化して身動きが取れなくなっていくこと、そして人間が機械のように扱われることへの危惧がある。

禅の世界は、有も無も、あらゆるものが渾然一体として、溶け合って、かつ互いに障りのない(円融無礙 えんゆうむげ)、分離されない状態で存在する世界。しかもそれは静寂不動ではなくて、石臼がぴょんぴょん飛び跳ねるような、全てが常に変化する世界であるらしい。そんな世界でこそ、人間の全貌は考えられるべきものであって、そうすることで人間らしい生涯が営まれるのだと、鈴木大拙は言っている、と私は捉えました。面白い…。「無は即ち有である」なんて、理屈では捉えられない所が面白いし、クセになる…。西洋的な二元論で語れないものもあるし、全てをそう簡単に「判った」と思ってしまいがちなことへの警鐘だとも思います。

ベルクソン『道徳と宗教の二源泉』は、第一次世界大戦から第二次世界大戦まで、愛国心、ナショナリズムが高揚し、国益のための戦争が頻発する中で、道徳をどう考えればいいのか論じていました。閉じた社会というのは、原始的で、防衛のために作った集団で、集団の中で上手くやっていくためのいわば生存のための義務的道徳が生ずる。集団内の相手には実は無関心で、利他主義の限界を表している。それに対し、開いた社会は人類全体を含むもので、集団内の相手の福祉に関心があり、道徳は自発的である。それはおそらく理想郷であるのだが、閉じた社会は閉じたり開いたりしながら、少しずつ拡大を続けていくしかない。このあとの後半部分では宗教や神秘性も論じられて私にはよく理解できなかったけれども…、「人類は自分の未来が自分自身次第だということを充分に知ってはいない」というところにはどきりとしました。

いやはやーー、濃いセミナーです。

もっと早く出会いたかったと思う古典がたくさん!!

11.24.2024

【社会・デモクラシー】

古典を読んで、対話するという合宿形式のセミナーに参加してきました。非常に有意義な3日間でした…。振り返りをば。

【社会・デモクラシー】セッションでは、以下の6冊の抜粋について対話しました。

ヒポクラテス『古い医術について』
ソロー『ウォールデン(森で生きる)』
ミル『女性の解放』
清沢洌『暗黒日記』
今道友信『エコエティカ』
リンカーン『ゲティスバーグ演説』

ヒューマニティに似たところがありましたが、セッションを通して、その時の世論とは異なる意見や考えを持って、それを迫害を恐れずに声に出して来た人物たちに深い尊敬を持つとともに、こういった人々がいて今の世界があると思いました。そして、未来に目を向けたとき、
・時流や『ふつう』であるものに流されて巻かれるのではなく、存在する問題に知らないふりをするのではなく、批判的な視点を持って見ることの重要さ。
・自分で考え、自分が倫理的、道徳的だと考える主義(コーズ)について、長期的な展望を持って主張していくことの大事さ。
・そんなのやってもどうにもならないよ、という諦観論や、目先の利益といったものに目をくらませられるのではなく。
など思い、自分が未来の世界市民のためにできることを一歩ずつやっていこうと思いました。

ミル『女性の解放』
原題は、Subjection of Women で、女性の隷従。訳者が希望を込めて、女性の解放としたのかもしれない…。ミルの、男性でありながら男女平等を論理的にフラットな目で擁護・正当化していて感銘を受けました。さらに、堂目先生の補足で、ミルが国会答弁で女性の権利論を展開して揶揄されて全く相手にされなかった、当時の学者としての名声を落とすことになっても、ミルは腹を括って活動し続けた、というエピソードにも感動しました。ジェンダーの問題には関心が高いつもりでいましたが、ミルについては経済学のイメージしかなく、この時代に、これほど論理的に、男性の立場から、確固たる信念を持って女性の解放を唱えていた人がいたとは。もっと早くこのテキストに出会うべきだったと反省しました。きっと、もっと昔に読むべきだった古典は山程あるのだろうなと思います。

ソロー『ウォールデン(森で生きる)』
Thoreauは森で簡素な暮らしをして、生活から余計なものを削ぎ落としてそこから得られるものを確かめたかった。優しい自然だけでなく災害を起こすような自然、食い合っている自然を目の当たりにして、元気を取り戻さなければならないと言っていた。電信で話し、時速30マイルで移動する必要がどこにあるだろうと言っていたが、今やアメリカの高速道路は時速75マイル、インターネットで瞬時に連絡が取れ、それゆえに、常にメールチェックに追われ、日本では東京から大阪まで日帰り出張なんていう慌ただしさである。「とにかく生活に落ち着きが無さすぎる」とのThoreauの指摘は現代でも通じる。大量消費社会へと変貌しつつある当時のアメリカに、疑義を唱えた一人だった。

Walden Woods というカフェが京都にあるのですが!まさかThoreauから来ていたとは!!今度行ったとき、由来を聞いてみよう。Thoreau が住んで思索を深めたWaldenの森のような存在にしたいという意図があったなら…なんと哲学的で粋なんだ!! Thoreau は、戦争に反対して人頭税を払わず、逮捕・投獄された。それは、不服従という形の抗議方法となり、人々に勇気を与えた。森の近所の人が人頭税を代わりに払ってくれて、獄中で過ごしたのは1日だけだったそう。

今道友信『エコエティカ』
今道友信氏は最近までご存命だった倫理学者・哲学者。技術の発展に伴った新しい倫理学を唱えました。具体的には、
「今までは、『目的』があって、それにかなう手段を選んでいた。例えば
生活するためのお金がほしい、であれば、友達に借りる、アルバイトする、行政に相談に行く、など。そこから、自分が実現できそうな手段を選ぶ。
一方、技術が発達した今、強大な『手段』が先に出てきてしまって、それを何に使うかの目的が後に考えられている。原子力が開発され、原爆が開発・使用されたり。原発が、危険性を顧みずに使用されたり。
そして、強大な手段を持つ主体が企業や団体になってしまったために、それを使う目的が、平和や安全、人道的なものではなく、組織の存続や利益となってしまっている。そしてその責任の所在が明確でない。倫理的主体の複数化が生じている。東日本大震災および原発事故はまさにそれで、企業の存続、自己保身が最優先になった。」と。

手段が先にあり、例えばインターネットやSNSという手段が先にあり、そこでバズって荒稼ぎし、そこから自分の主義主張を発信していくというやり方もできるようになった(選挙、広告などマネーゲームである)。そこには手段から始まった目的の危うさがあります。AIも今や、強力な手段といえます。

また、手段が先に来ることによって、手段によって目的が限定されることになった。それは可能性を狭めることになる。もはや、「神に近づく」とか、「平和を達成する」といったような、俗を離れた目的は考えつかなくなる。それも自由な思想を妨げる。」と。


セミナー会場の庭。自然豊かで静かなところ。俗世間から隔絶された感がある…。そんな場所で、対話は進んでいきます。眼の前の道路は紅葉した大きな木々の並ぶ並木道で、朝散歩したら、初冬の朝の澄んだ空気と、土と葉の折り混ざったなんとも言えない森の香りがして、「あー、Thoreauは森でこんな気分を味わっていたのだな」と思いました…!


11.17.2024

気にしない力。カプセルホテルとビジホの高低差!!

島根ではカプセルホテルに泊まったのですが(神在月の観光シーズン、本当に宿がなくて)…。女性専用の部屋でしたが、20人!が同じ部屋に寝ていて、やはり静かなわけがない…。

深夜に帰って来てごそごそしている人が1時くらいまでいて、そこからやっと寝られるかと思ったら、高らかないびきをかいている人複数名、呼吸器疾患のような咳を繰り返す人が… で、きわめて浅い眠りで何度も目が覚め、早朝出発組の人々が4時半には動き出して寝室とロッカールームを往復する音も始まり、超絶睡眠不足でしたわーー

誰も会話していなかったのはよかったのですが、足音とドアの開閉音がひっきりなし…。朝は徹夜明けの状態でした。

これ、眠れた人いるのかしら??

騒音は慣れでもある。らしいし、寮生活とかだったら慣れるのかな? 耳栓して、どこでも寝れる人だったらいいのかもしれない。気にしない力、ほしい…! 二泊予定でしたがこれはマズイ…と思い、眠れないカプセルの中で二日目のホテルを検索。

松江市はやはりホテル空いていなかったけど、奇跡的に出雲市にビジホが!! 地方都市にしてはかなり高いお値段だったけど、ここはもうお金で解決しようと思い、深夜1時半にポチリ。

翌日の、個室のビジネスホテルに、広々と荷物を広げて、しーーーんとした一人時間を味わい、「あーーー幸せ…!!!」ってなりました。前夜のカプセルは、これを味わいありがたがるための伏線?だったのか?とすら思えて。熟睡して、翌朝目覚めた瞬間、ここはどこだっけ?ってなるくらい…。よかった!! 予定外に出雲市に泊まれて、なんか御利益があった気もするし。

ともかくも。ホステルとかシェアハウスとか、よく泊まれる/住めるなぁ…と思いました…。私は特に神経質な方だと思うけども…。(というか、聴覚過敏の気が…) 何でも気にしない人って、いいな。

何が起きても、大抵のことは、真正面から受け止めずにさらりとかわす。のような。

ちょっと話がズレますが、何でも動揺せず、気にしない人、揺らがない人、って一緒にいて本当に安心するなぁーと思いました。

騒音については無理だけど、その他のことについては、枝葉は揺らいでも根っこは揺らがず、どーんと構えていられる人になりとうございます。

出雲大社一の鳥居。日本初のコンクリート製鳥居だそう。

出雲市ありがとうーーー!!!

11.16.2024

足立美術館

足立全康という、明治初期から大正にかけて一財産築いた地元の実業家が建てた美術館。生家があった場所は、現在の足立美術館の所在地。

10代の頃から、商売の妙味を知る。うまくいった事業もそうでない事業もあったけど、結果的に長く続けていてこんな美術館をまるごと建てるまでに。田舎ののどかな土地のど真ん中に突如として現れる足立美術館。庭園は立派だった。さすが、この土地の広いところでないとこの規模は難しいだろう…。横山大観の『那智の滝』を模して人工の滝まで作った。滝って人工的に造れるものなのか…。実業家の意気を感じる…。






全康氏、最初の結婚は無理やり別れさせられて、仲が良かっただけにショックを受ける。。再婚し、息子が生まれるも、息子が十歳の時に妻他界。そしてまた再婚する。で、その妻にも老後に先立たれる。まあ80-90歳の時だから、どちらが先でもおかしくはないんだけども。何か…人との別れをたくさん経験してるんだなと思った。そして、そういう時、自分が持っているお金はどんな風に見えたのだろう。とか。一代でこれだけの財を築くって、田舎のムラ社会からどんな感じで受け止められていたのだろうか、とか。

ともかくも、美術館2軒行ったくらいの見応えがあった〜!

近代日本画(明治以降)と、現代画。

本館にある近代日本画は、横山大観を目玉に。大観は岡倉天心の遺志を継いで、日本美術院の復興に努めた。2 m ✕ 4 m の屏風 ✕ 2枚の紅葉図は迫力も色味も素晴らしく見事。群青色の背景に、明るい紅葉や焼けた朱色を使った枯れた紅葉など多様な葉っぱが巨木の上に広がる。プラチナが散りばめられていて、きらきらと光る水しぶきとなっている。

横山大観は太平洋戦争前、自分の画歴50周年を記念して、海山十題、合計20作品を描いた。話題になり、当時としては破格で売れた。それらを売ったお金は全額陸軍と海軍に寄付し、それでもって、軍部は戦艦「大観」を建造したらしい。すごい時代…。この頃に海のテーマが多くなってきたのは、海洋国日本の意識が高まってきたからだろうとの見方もある。芸術家が政治活動というか、国家のイデオロギーに加担するとは…。「絵は心で描く」と、言っていたそうだが、軍部の情報操作のままに愛国心を多分にかきたてられた心だったのか、戦時中となれば一番に不要なものとされる芸術というものを、彼なりに守りたい心だったのか、わからないが…。 加えて、軍人学校に掲示して士気高揚を図るためと依頼され、朝日と富士の絵を描いたそうだ。時代の趨勢には逆らえない、職業画家とはそういうものかもしれない。

現代画は新館に。美術院展への出品作の中から、足立美術館賞の受賞作品を選定と同時に買い取っていて、その作品を展示している。作者による作品紹介が書かれていて、それを読みながら鑑賞できるのが素晴らしいと思った! 現代絵画ならでは。現代絵画には馴染みがなかったしよくわからないなと思っていたけど、作者の解説があると一段深く味わえる。抽象画ではないので、描かれているものも幾分分かりやすいのだと思う。

バリ島の火葬の絵のテーマとして、「バリの人々にとっては死ぬことは、苦しい現世を離れて神々のもとに行ける喜ばしいことだから、お葬式は絢爛豪華」とか、一見部屋着を着て本に囲まれているが細々といろんなモチーフが描かれている絵「理(ことわり)」、について、「理とは、法則、規則、など堅苦しいもの+覚悟がスパイス。『見た人の記憶になんとなく残ってずっと考えさせる、人の時間をそれとなく盗む絵を描きたい』…と絵の構想を練りながら、何十時間も時間を盗まれてしまったことに気づくのである」というオチ付き。人の時間を盗む絵を描きたいというのは大胆な表現だけれど、それほどに人を惹きつける絵を描きたいということか…。

「人に〜させたい」という目的で描くのが、美術の在り方なのか?と思うと、疑問もある。ただ、作家が完全に自分の世界にこもって、「この題材を描きたい、私がやりたいように。見ても見なくてもどうぞ」というのも違う気がするし。

足立美術館賞の絵は全て大きい!2 m x 3 m は優にありそう… 大きな絵はそれだけで見応えがあるし、この大きさでデッサンぐるいもなく成立しているだけでそもそも素晴らしい…のに、その上にメッセージ性があって味わえる。現代絵画も親しみというか好きな部分が見つかってきたぞ?という心境です。

おまけに新館2階では、「人々を魅了する樹」という展示まで。木々を主役にした大きな絵画がたくさんで迫力満点で、 奥入瀬の渓流の波しぶきを描いた作品、5月の青森の、まだ肌寒い森の神秘的なひっそりとした雰囲気を描いた作品とか。藤の大樹の、大きな大きな根の絵とか。幻想的な藤の花の美しさ、可憐さと、対照的な、根っこのゴツゴツさ、複雑に絡み合って、水や養分をじっくり吸い上げて大樹となる。花咲くまで待つことの大事さを伝える。とあり、ほおお…と。樹特集も大変佳きでした…。

【今後のための備忘録】コインが返ってくるコインロッカーもあり、荷物を持っていっても大丈夫!ただ、入口と出口が違うので、入口に戻ってロッカーから荷物を取るのを忘れずに! 帰りの安来駅行のシャトルバスの整理券を取っておくこと! お土産物屋さんを見る時間とか、併設のカフェで昼食をとる時間なども考えると4時間あれば十分かな?公式HPにはゆっくり見たければ2時間、とあったけど、2時間じゃ全部の展示とその解説を見きれないと思いますーー💦




出雲割子そばにたどり着けた夜…!

昼の割子そばは断念したので、夜食べたいな〜と思っていたのですが、意外と松江になく…。

睡眠不足(てか徹夜明け?)からの一日歩いた挙げ句、エネルギー切れだよ〜と思いながらふらふらしてました。ホテルを変えたので、1時間電車に乗って出雲まで帰らねばならず、出雲で食べる手もあったのですが。出雲には、ホテルから歩いて行ける距離でお蕎麦屋さんが1軒しかなく、しかも電話して聞いてみたら私が到着する頃にはおそばがなくなっているかもしれません、と…。17時開店で、30分前から既に並んでる人がいるようで! ひえ~~~ 出雲市駅周辺は飲食店も少なくひっそりしていて、神在月以外の時はほんっとに静かなところなんだろうなと思われます。なのでできれば松江で食べたかった…!松江駅やその周辺はそれなりにお店や飲食店たくさんあるので。

彷徨っていると、松江テルサに「出雲そば」の文字が! 17時開店5分前で、まだ電気もついていなくて、開くんだか全然わからなかったけどとりあえず座っていたら開いた!店内が新しくて綺麗で、ちゃんとしたお蕎麦屋さんだった!新そば始めました、のお知らせがちゃんと筆書きで書かれていていい感じ。しかもアルコールメニュー一切なく、定食を食べてさっと帰れる気軽さが素晴らしい。

松江駅の前の道路を窓から眺めながら、穴子天割子そばを美味しくいただきました… 穴子はほっそいひょろっとしたいつものではなくて、鱧天のようにすごくふっくらしていて、想像したのよりはるかに美味しかった… 割子そばも、蕎麦の味がしっかりしていて、それにいろんな薬味をかけて食べるのが美味しかった。「テルサ最高!ありがとうーー!」となりましたわ。


ちなみに、テルサは勤労者福祉センターだそう。

出雲大社

出雲大社初めて来ました。森の空気が澄んでいる。厳かな感じ。金曜なのにすごい人だ〜
縁結大祭めがけて行って、無事参列できたので良かった!!



普段は入れない拝殿の中の参拝者席で大祭を見る事ができた! まあ、本殿の中で何が行われているかは木の格子越しにちらりとしか見えなかったんだけど… それでも雰囲気あった… あと、アナウンスの方がいて、今なかで何が行われているか知らせてくれるのもありがたかった。

参列者用のテント。神様は西を向いているそうなので、西側に。しかも手前のたくさん椅子が並んでるところじゃなくて、その奥のほうが見れる…じゃん、と見渡して気づけた。そしてそこの最前列が取れた! ここは、朝8時着の電車に乗って、バスではなくタクシーで即向かって席取りを優先した甲斐あり、我ながらいいお金の使い方をした…!

参列者セット。封筒、式次第(と言うのか?)、絵馬、宝物館拝観券、カイロ。絵馬は、願い事を書いて、大祭の時に一緒に祈ってもらい、そのあと掛けて帰る。じっとしてると寒いのでダウン着て正解。カイロも後に活躍、ありがたい…!

縁結大祭中、扉が開けられる儀式があったのだけど、開けられた時、ひゅーっと冷気が吹き去って行ったり、祝詞が読み上げられる際、突然ぽちぽちと雨が降ってきたり…。想像かもしれないけど何かいそう…なんか、密度が…?みたいな。なにせ、八百万の神々なので… 扉から出てきて、今年1年のすべての佳いご縁を話し合っているのでしょう。

この大祭、往復はがきで応募して、最初の二千名が受け付けてもらえる。9月から受付開始していて、気づいたのが10月初め…間に合うかな?と思ったけど出してみてよかった! 宗教行事に五千円も払ったのはたぶん初めて。参拝記念品(お砂糖、縁結び守り、縁結び紐)がもらえるので、お土産はたくさん!

参拝記念品たち。

素鵞社という社が一番北にあって、稲佐の浜の砂を持ってきて、それと交換して、というのがお作法らしい。大祭が終わって、北に回り込んで見たら、それが長蛇の列…! お参りだけでもしたかったけど、稲佐の浜に行く時間もなかったし、縁結大祭見たからそれで十分!な気がしてすすすーっと横を通り過ぎました〜 日御碕灯台も行ってみたいし、次回は車で、灯台から浜から大社へ、巡ってみたいと思います。


神様たちが神在月の間滞在してはってる東十九社と西十九社(宿舎にあたる)の扉も今だけ開放されていて、お供えのご飯、箸、塩、水、などがちゃんと神主さん達の祝詞と雅楽とともに供えられていて。
そのすぐ近くで人々が鑑賞したりお祈りしたりしている。神主さん何人いてるんだろう… ともかく規模が違いましたわ。

「きずき」というお蕎麦屋さんをおすすめしてもらったのですが、なんと金曜日は定休日ーー!大祭だろうが何だろうが休む日は休む!の意気込みが素晴らしいなと思いました💪 ここもぜひ開いてる時に来たい〜。周辺のお蕎麦屋さんというか、飲食店のほぼすべてが大行列!! ここで1時間並ぶのは時間がもったいないので(しかもそばが残ってる保証もない)、出雲そばは夜にして、和牛ライスバーガーを食べました!すぐでき美味しい!コメが食べたかったしよかった!




因幡の白兎の像がたくさんあって大変可愛かった…!