1.11.2025

「手放そう。」

昨年は心理学でいろんなことを学びました。自分の性質や、これまで考えてきたことに説明がつき、とても納得できました。

客観視できた。

幼少期のいろいろについても。なるほどね、と。

いろんな人を、責める気持ちもあった。

それはそれで、今までフタをしていた感情を、味わって、消化するのに必要だったと思う。例えるなら、

今までは、体にあった異物感とそれに伴う諸症状をずっと見て見ぬふりをしていて、だから、原因とか結果もわからなかった。
「フムム、やっぱり何か異物があるな」
重い腰を上げて検査をしてみたら、「ああ、こんなものがあったんだ」となり。
「これは、胃が苦しいはずだわ…」と、その異物を、しげしげと眺めてみたり。
これを消化するには、この消化酵素のサプリがいいかもね、と、いろんな酵素助剤を試してみたり。
そのつっかえていた異物の存在を認めて、味わって。それも、過去の自分の一部だったのだから、何かしらの役割は果たしていた。それも認めて。
そして、何が効くかな?と、消化酵素の助けも借りて、ゆっくり消化して、腸に押し出し、排水(笑)していく。
そして、水に流せばいいのだ。ジャー。

その異物の存在を、忘れたり、否定したり、無理矢理に「いい経験だった!」と思う必要はない。ただ、それが起こった。そこに存在した。で、消化して流していった。それだけ。

メンタル強い人が、理不尽な扱いに遭うと、それは「野良犬に吠えられた」ようなものだから、自分に非はないし全力で逃げる、と言っていたのと同じように、ただ、自分に非はなくて、それが起こっただけ。だから、全力で逃げた、もしくは、消化して体外に排出した。それだけ。というような感じ。



そんなプロセスを、ここ一年弱で踏んだのだと思う。

考えたり恨んだり?、とらわれていたりするのが面倒になり。

「うん、許そう。」と自然に思えた。

面倒というか、「もうさんざんしたやん? もうせんでもいいやん?」という。もう充分味わった…。

私も完璧じゃないし。たくさん許してもらってるし。お正月、実家で、いろいろなことをしてもらって、ありがたいな、と。心が通じるようになっているし、穏やかだし。水に流そう、手放そう、と思えた。

祖母が、心配性で不安症で、いつも何かに対して心配している人なのだけど、「そんな性格だからどうしようもない、それでずっとここまで生きてきたんだから」と自分で言っていて。「そうなんだねーー」と受け止めつつも、「それを、手放す、という選択肢も、あるんだよ。」と伝えてみた。それは、ふっと心から、ポロッと出てきたもので。自分でも、心の奥底で思っていたことで。

とらわれていたことから、自由になりたい、なろう、と、まるで深海からコポコポと水が湧き出て、やがて水面に届いたかのような感覚だった。それに自分で内心驚いていた。

これは自分のペースでそう思えないと、いくら他人が「手放すこともできるんだよ」と言ったところで、他人のタイミングでは響かないだろう。自分のタイミングでないと。「許そう、手放そう。」という思いって、ある日突然やってくるというよりは、じわりじわりと、水泡がコポリと、深海から上ってくるような現れ方をするのかもしれない。

いろんなことが、心の栄養になっていたんだなー。
  • 淡々と、やるべきことをやって、人生過ごしている友人と会ったのもすごく開眼させられる思いだったし。
  • 「言葉の一つ一つが心の栄養になるように、お話ししています」と言ってくれた、凄腕カウンセラーさん。
  • 深い話をできる友人たちと、居場所。
そんな貴重なものたちが、貴重な消化助剤になってくれていたんだなーー。


そんな思いです。




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