9.19.2024

「テレフォン人生相談」/加藤諦三

筆者の加藤さんは、テレフォン人生相談という番組を半世紀も続けている。精神科医かと思いきや、社会心理学を学んだ人らしい。

本を通して共通するテーマは、「自分に正直であれ」。自分の感情、思考、信念をまず認識し、それに正直になれ、ということ。その反対は抑圧である。「雨が降っているのに、晴れていると思い込むことが、心を病ませる。」

体系的な書物というよりは、相談内容の説明が多かったけれど、行動に移せそうなアドバイスとしては

  1. 自分の感情に注意を払う。
  2. その感情の理由を考える。満たされていない欲求は何か。「行き詰まったときは、まさか、と思うことが真実。思い込みが真実を見えなくしているので」。
  3. 感情を適切に表現する。書く、本人に伝える、上司に伝えてもらう、など。
  4. 自分自身であれ。自分がやりたいことを自分で見つけて実行できれば、他人を巻き込まないで済む。
  5. 他人のことは、その人にしか直せないのだから、巻き込まれないように、自衛せよ。

無意識と意識下の違い。

熱が39℃ある時、人はトレーニングをしない。しかし、憂鬱になっていても、明るく振る舞ったり無理して背負い込んだりする。心と体の病で決定的に違うことは、自覚があるかどうか。自分が今弱っていると、認識できるかどうか。心の病には、無意識下に存在している過去の傷、それによる思い込み、信念が関係していることが多い。それは、目に見えないし意識されないので、気づかれにくい。だから深刻なのである…。

なぜ、不幸にしか見えない道を手放せない人がいるのか

人が不幸にしがみつく力は凄まじい。それは、人は幸福より安心を求めるから。今ある不幸な状況は、予定調和でもあるから、安心ではある。予知できるから。幸福になれるかどうかわからない不安な道を行くくらいなら、不幸にしがみつくという、無意識下での選択も働いているのかもしれない。

人は、本能的に孤立を避ける。だから、孤独でいるよりは、ひどい扱いをしてくる人でも、離れられない。一緒にいることを望む。小さな子供でも、一人で遊ぶよりは、嫌いな子と一緒に遊ぶことを選び、最後にはボロボロになっていく。それくらい、孤立と追放を恐れるのは、人を駆り立てる強い心理である

自分の気持ちを抑圧せず、どんなドロドロした感情でも、その存在を認めること

「親のことが嫌いだ」というのが本心としてあるとする。「親は素晴らしい、私は理想の家庭で育った」と、自分に嘘をつくと心を病む。正直な気持ちを抑圧してしまい、自分自身を生きることができなくなるから。「親のことは嫌いだけど、人として親切にしよう」とするのが、自分を失わない、大人の対応である。

心の奥底にある怒りを認めるのはあまりに深刻で、恐怖ですらある。だから認めない人が多い。だから、理由もわからないままに苦しんで苦しんでもがく。自分の怒り・憎悪は、誰それに向けられたものである、という真実を認めず苦しんで、傍から見ると、「死んでも不幸を手放しません」とはっきり表明しているように見える。

自分の本心に気が付き、見たくない真実を見ることができると、成長する→すると、エネルギーが湧いてくる→乗り越えられる。

悩みは、矛先の「置き換え」で表される

本当に怒りを感じている相手には対決するのが難しいため、いじめやすい人、怒りの矛先を向けやすい人に怒りをぶつける。それも、状況に見合わない、不相応なほどの怒りを。

【例】子供の、親に対しての怒り→親にはぶつけられないため、残酷な小説を書く、クラスメイトをいじめる、人種的偏見に賛同する、など。【例】配偶者への怒り→配偶者には直接ぶつけられないため、子ども、子どもの友達、その親、周囲の優しい人、などに怒る。【例】外の人への怒り→外の人にはぶつけられないため、家庭の中に攻撃性を向ける。

ずっと怒っていると、その相手を責めることを自分で正当化するようになり、ますます怒りがたまる。でも、置き換えでは本当の癒やしは得られないし、自分の怒りの根本解決にはならない。弱い人にどうしても矛先が行くので、自衛するしかない!

ACE性格とは、自分の感情に注目Attendし、原因を理解しConnect、表現できるExpress人。怒りを消し去り、悩みを解決する。表現というのは何も、本人に対してでなくても、友人に話すでも、紙に書き出すでもよい。日頃から自分の気持を分析し書き出していると、相手に対してもきちんと自分を伝えることができるようになる。

依存したいけど自立したい の葛藤

依存的敵対関係=人間関係依存症=お互いに相手を拒絶しながら、相手にしがみついている「依存」の状態。両者ともに自我の自立がない。【例】「俺は皆に嫌われたい」と不自然に言っている人ー本当は、血の通った人間関係を作りたい、でもそれを表現できない。(「キック・ミー」のゲームのよう) 

愛情に満ちた家庭に育たなかった子供は、未だに、満たされていない愛情欲求を抱える。体は大人でも、心は幼児、ということがありうる。しかも、頭脳や社会的地位もあるので、素直に、「愛してくれ」「助けてくれ」とは言わず、身近な人を叱責する態度になる。倫理的、世間的、常識的にXXという、隠れ蓑を被せて。「おまえは世間知らずだ」などというように。その実、心のなかでは、「どうしてそんな怖い態度を取るのだ。おまえまで俺の味方じゃなくなるのか。そんなことないよな。」と思っているのに、そういう気持ちがあることも理解できず、それを素直に表現することもできない。なぜか、理由のわからないもやもやを晴らそうと、手当たり次第に八つ当たりしているだけ。これは本当につらい。日本人の男性には、そういう人が本当に多いそうなのだ。

嫌われたくない=常に相手に嫌われないように尽くしすぎる。相手が自分に好意を持っていると思える証拠をいつも探しているのは、保護と安全への欲求。いつも「愛してくれるよね?」「愛してよ!」となると、周りも、最初はいいかもしれないが最後はうんざりしてきて好意を失う。皮肉なことに…。

相手との関係が壊れることを恐れるために、怒りを直接表現できない=軽い不安感と抑うつ状態。

【例】今付き合っている人との関係がスムーズにいかなくても、改善しようとせず、かといって別れようともしない。心理的に依存しているから、自発的に関係を改善する努力ができない。

巻き込まれないように…安全距離を取って接したほうがいい人かどうか見極める

人は、自分を愛し尊重する程度にしか、他人を愛し尊重することはできない。

他人に「絡む」ことによってしか、自分の人生を活性化出来ず、他人を巻き込むしかない人もいる。 【例】子供にしがみつき、子供から愛を搾取しながら、自分は子供を尊重していると思っている親。自分の無意識にある「無意味感」から目を背けるために他人を世話し、自分の人生に意味を感じようとしている。

相手への関心がないとき、自分のいいと思うことを押し付けて、その上相手に感謝を要求する。押し付けがましい親は、子供を不幸にしている。相手に関心があれば、相手が何を求めているか、何を喜ぶかがわかるはず。自分の無価値感を満たすことに精一杯で、相手のためになることをしようという心理的余裕がない。だから、自分の価値を守るために他人を巻き込んでいる。

やりたいことをするのは良いが、自分が「やりたい」と言ってしていない人もいる。周りのせいにして自分のしたいことをしている。それは傷を負いたくない弱い人であり、それを隠そうとしている。本当の自分を出せ、というアドバイス。

彼らが、満たされない欲求に気づき自分を改善するか、したいと思うかは彼らの問題。だから、巻き込まれそうになったら自衛すべし…。

デイヴィッド・シーベリー「自分自身でありえないなら、悪魔になったほうがましだ」

ロロ・メイ「仲間に対する最大の使命は、自分自身であること」

子供の健全な成長のために…

「自分がなりたい人間」をはっきりさせることができた子供は幸せ。あとはそれに向かって行動を起こしていくだけで、他人を巻き込んで自分の人生を活性化させる必要もない。親は、それをただ見守ればいい。

子供を健全に励ますには、やろうとする熱意をまず認めること。「何とか解こうとする力ってすごいね」やった努力を認め、励ますこと。結果ではなく。「先週寝なかったね、今週も寝なかったら、次の問題に進めるからね」。失敗を受け入れること。「お母さんなんか、もっとおねしょをしてたわよ」 なんで出来ないの、は、単に親の期待が高すぎて、現実を受け入れられていないだけ。受け入れられていない、ということに気づかず、「あなたのため」と言ってスパルタしてくるような親は、前述の通り、自分のくすぶった感情の矛先を安易に子供に向けているだけである! 子育てには忍耐強さ、寛容さ、自分自身を受け入れた穏やかな心、が絶対的に必要だ…

励まされて生きてきて、初めて、共同体感覚を持つことができる。つまり、心が他人と繋がっている状態でいられる。だから劣等感とは、所属意識の欠如である。

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こういう本を読んで毎回思うけど、幼少期の親との関係がどれほど重要かわかる。心が痛いです。あーー 生理的にも精神的にも未熟で周りに頼らないと生きていけない状態で生まれてくるヒトの、悲劇よ…という感じ。




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