9.24.2012

いろいろ考えたこと

鴻上尚史『「空気」と「世間」』
香山リカ・辛淑玉「いじめるな!」
を読みました。

いじめを苦にした自殺があとをたたなくて非常に悲しく思っていて、自分自身の体験も重ねて考えてみて、でも、どうしてこう人がこんなに人を苦しめることがあるのだろうと、どうにも明確に説明ができなかった。子供のすることだし、説明がつかないこともあるといえばそれまでかもしれないけど、大人の世界でも同じようないじめや嫌がらせが起こっていることも事実。
子供も、ときには無邪気でときには冷酷というけれど、中学生って、もう言っていいことと悪いこと、していいことといけないことがわかって、ほかの人の気持ちを思いやる心があっていい年じゃないかと思う。

香山リカさんは精神科医で、失敗談も記しながら、現在の若者のこと、学校のことについて語っている。「いじめる」という言葉はあっても、「いじめ」という言葉は何十年か前は存在しなかったという。私の学校の先生の誰かもそう言っていた。陰湿化したいじめ。そして、そのターゲットは、以前のように、特徴のある目立つような子でもなく、本当に誰でも、いわば順番に、ある日突然、なったりする。こうなると、自分の番がいつ来るか分かったものではない。そして、ある一人をターゲットとすれば、他の全員はいじめを黙認あるいは加担し、その大衆の一人でいようとする。つまり、一人を犠牲にすることで、他の人の連帯意識?が高まるというのだ。

集団を重んじる文化は今に始まったことではなく、最近は「空気」という言葉でそれが表されている。あるとき突然決まる「空気」が、ある人を縛り、ある人を苦しめ、ある人を安心させるのである。多くの人は、それを敏感に察知し、集団から浮き出ないように必死に自分を溶け込ませようとする。みんなと同じであることを、みんなで確認しあうらしい。その証拠に、成績表が配られた日には皆で恥ずかしげもなく見せ合って、「1」や「2」が並ぶことをお互いに確認して安心しあうことも見られる。その場で少しでも目立とうものなら、即刻いじめのターゲットとなりうる。ほかの人は皆、見てみぬふりしかできないのだ。止めたりすれば自分が次に狙われると分かっているから。同調圧力の高い環境下で、見てみぬふりをする(積極的に加担しない)ことは、しかし、彼らにできる最大の抵抗なのだ。

辛さんは在日朝鮮人で、酷い差別を受けてきたが、それに抵抗し、声を上げ、差別発現を跳ね返してきたつわものである。彼女は、日本の今の若者を見て、直球を投げてこない、覇気がない、と指摘する。子供のときに、対立を避けて狭い空間に閉じこもることが自分を守るすべだったという人が多いからではないか。目立たぬように、人にどう思われるかばかりに気をまわしてきたら、「打たれ弱く、自分で主体的に何かをなした記憶がない、ゆえに自信がない」と評されてもしょうがない。というか、そういう人間でいることが、その環境を乗り切るために必要だったのだから。ということを、自分への言い訳もこめて思ったが…。小学校、中学校、(運が悪ければ高校も…)とそのようないじめ多発環境で育ってきて、いきなり大学に入って個性を出せ、と言われても戸惑うばかりである。

多くの企業が参加する大学生向けの就職セミナーで、一番人気のブースはなんと、「あなたの適性診断します」コーナーだそうだ、と著者は言う。まあ、就職活動した身として、自分の適性が分かる助けになれば、という軽い気持ちで受ける人も多いと思う。客観的なアドバイスはたいてい役に立つ。

現在の風潮として、過剰に気を回し、傷つけることも傷つけられることも避ける傾向にある。自分の生きている世界が狭く、何が迷惑で何が求められているかが明確な世間であればそれでも良かったが、現在の社会(多様な人が生きるコミュニティ)では、相手と自分の利害が対立することが普通に発生する。ビジネスなんかがその典型である。それを恐れ、傷ついていてはどうにもならないのだ。対立せずになんとか回避するのではなく、真正面から相手の言うことを聞き、こちらの主張を伝え、交渉できる能力(調整力)こそが必要なのだ、と辛さんは言う。それは、罵詈雑言に冷静に反撃し、顔も見たくないような相手と一緒の空間にいることであり、生易しいことではない。

これを読んで、自分がけんかしないことについて思い至った。
私も中学校のときにものすごく嫌な思いをして、人を帰るなんて不可能、自分が傷つかないようにするためには対立を避け、ひどいことをする人には近づかないようにしよう、という意識が今も残っていると思う。その頃から、人と衝突することがなくなった。その分人と距離を置くようになった。仲の良い友達と、そうではない人との距離がかなり違ったと思う。

そのままずっと来ていて、衝突を避けよう、傷つけることももちろん嫌だし(見ていることしかできなかった)、傷つけられることだって避けたい、そんな思いのまま、おとなしーく来た気がする。

でもこのごろ、揺さぶりをかけられている。
ずっとそのままではいられない。
仕事はまぁ今たまたま、ラボで物相手の実験をしているから良いけれど、それでも、横柄な人とか失礼な人とかにも笑顔で接しなければならないときがある。それはそれで割り切ってできるけれど。でも、言い返さなければいけないときがある。何とかこちらの要望を聞き入れてもらえるよう、説得しなければならないときがある。その場面を避けてばかりはいられない。当たり前だよ、そんなこと、って言われるかもしれない。でも、私は最近になって、うわべだけでなく、そのことに本当に納得がいった。

もう少し本音で話してみても良いんじゃないかと思ってきた、最近。そのほうがずっと、相手にとっても自分にとっても気持ちいいのではないか。私の友達は言う。「思ったこと、そのまま言っちゃう。そのほうが気持ちいい。」そして、私は彼の言うことを信じることができる。正直者だって分かっているから、へんな深読みや疑いをしなくていい。それってすごく楽。であれば、私もそうなったら、相手も私もずっと気持ちよくいられるのではないだろうか。

「これ、私はちょっといやなんだけど」と言われたときに、ショックを受けるのではなくて、「そうか、じゃあどうすれば良いかな」といえるように。思えば留学生相手だとそれが自然にできていた。お互い思いを伝え合って初めて、解決策が見えた。その意味で私も実は、さんざん批判していながら、日本人の均一性に甘えていたのかもしれない。うわ。

ああ、一歩一歩だな…
先は長い……
でも、きっと待ってくれる人はいるから。
理解してくれる人もいるはず。そして、私も彼らのことを真に理解して、深い付き合いをしたいな。


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