10.23.2014

考えること 内閣府調査と問題への向き合い方

内閣府調査「若者の国際比較」。日本の若者(n~1000)の中で自分たちが社会に影響を与えられる、何かを変えられると信じている人は30%らしい。そうだろうなあ。

香港の若者は政治体制に対して高らかと反旗を翻している。

独裁国家と民主国家は違うんだから、として片づけていい問題ではない。
本当にこれは自分の住む地域として正しい姿なのか? と問う姿勢が、あるかないか。

生活は今本当に楽で、(Life is too easy in this time)社会的、倫理的に大きな問題に目をつぶっていても生きていける。結局個人の力なんて何にもならないよ、というあきらめでそれを正当化しながら。それはそうだ…。どうすればいいかなんて、考えれば考えるほどドツボにはまってしまう。

また、日本の若者の(といういい方は嫌いだけど…)の自分への満足感は、自己有用感と関連があるとのこと。つまり、自分への満足度を評価する際、自分にとって自分はどうであるかだけでなく、他者にとって自分はどうであるか、という対他者の見方があるという。人の目が気になる、何をする前にも、どう思われるかをまず考えるという特徴が、自分も含め多くの人にあると思う。それは、失言を水際で防ぐ砦となるときもあれば、真面目に働く原動力となることもあるし、控えめになりすぎて自己主張ができない原因になるときもある。

ある外国人の人が「褒められるのはあまり好きではない。いいことをするようにプレッシャーをかけられている気がする」と言っていて、その意味がよくわからなかった。「え、褒められるって単純にうれしいじゃない?」と思っていた。けれど、その人からすると、自分を評価するのは自分なのに、なぜこの人はその役割を買って出るの? その思惑は何?と思ってしまうようなのだ。まあそれは穿った見方かもしれないし、私とたまたま受け取り方が違っただけかもしれないけど。印象的だった。

それにしても、自由に発言できて論理的で、自分は自分、人は人、という文化の中にいるとすごく居心地がいい。なぜかを突き詰めて考えると、私が他人の評価を気にする人なので、他の人が「自由に発言しやがって、何だコイツ?」と思う社会よりは、「人を傷つけるような言動でない限り、あなたの自由。だから私の自由も認めてね」と大多数が思っていてそれが社会通念として通っている社会の方がいいのだろう。私は多分、人の仕草や口調等からどう感じているかだいたい想像できてしまうから、余計それが気になるのだろうと思う。


日本の社会では、皆が、「答え」を見つけて安心したがっていると思う。
波風立てて、良いことは何もない。
来るもの拒まず、何でも受け入れている。ときとして、寄らば大樹、多勢に無勢、長いものには巻かれよ、などという言葉で表される、その「答え」。それは思考停止以外の何物でもない。
ある社説に社会情勢が「どうなるのか…」ではなく「どうするのか…」と問うべきだ、とあった。その通りだと思う。

極端な例を考えると、イスラム国が攻めてきたとして、政府は、あるいは社会は、陥落した場合を早々と想定し、法律改正の手順や、国民の半数分必要になるだろうブルカの手配(断固拒否!)や、お祈りの場所の確保に関する指針など、せっせと始めたりするのではないか。。。。 そう思ってしまうほど、この社会は従順な気がする。docileという単語。

答えのない問題にどう論理立てて答えるのか。研究の場では、理由がないと説得力がないと常々言われる。当たり前。研究の場でなくてもそうだ。ああ、なぜこの考えに至らなかったのか、と落胆するときもある。

感情論でしか物事を動かせない人は、「地上戦になれば竹やりをもって米兵と戦え。精神力があれば勝てる」と戦車・機関銃を持った米国軍人と戦うよう民間人に命令し、自分は前線に出ず隠れている軍曹と何も変わらない。結局、あの戦争で権力を握った層の考え方が時代を超えて再生産されているし、それを信じ素直に従う民間人という構図も変わっていない。
だって、そういう人たちに教育されたら、そういう考え方になるよね。何て賢い戦略。自己再生する権力主義や軍国主義や諦念。どうしたらこれを断ち切れるのか……。

香港の若者のように、自分達で何が正しいのか、何をすべきなのか考えて行動に移す人でありたい。


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