7.06.2018

『「やりがいのある仕事」という幻想』

ずっと前に読んだ、森博嗣さんが書いた仕事に関する本を読んで感想を書いていたのを発掘したので載せておきます。タイトルが…思い出せなかったのですがあるお方にずばり言い当ててもらいましたー その中のフレーズとか表現とかならけっこう思い出せるのだけど… 短い本でした。大学助教授からミステリ作家になった森さんの、仕事とかキャリアとか、学生を指導してきた経験を踏まえてのお話でした。

要旨としては、
・「変わったこと」なんて誰が見るかによって異なる。
・どんな情報でも、送り手の主観が入る。
・「やりがい」が見つからなくても、あなたの価値には関係ない。

どちらがいいのでしょう?との問い。どちらでもよい。
少なくとも、どれか一つが「正解」なのではない。場所、条件、個人、状況によって、様々な場合がある。当たり前だが、けっこう多くの人が、たった一つのこうあるべきという正解があると信じて、それを見つけて安心しようとしているようだ。
そして、周囲の目を気にする症候群。これはもう老若男女問わず見られる。これは学校という閉鎖空間での教育の賜物だ。物心つく前からの集団教育で、刷り込まれている。まずは、その症候群が自分にあること、そして、それはあなた自身の考えから生まれたものではなく、この社会で生きていくために骨の髄まで叩き込まれたものであることを、客観的に認識する必要がある。

恐らく誰でも、ちょっと「変わっている」ことをしようと思ったら、緊張したり勇気を振り絞らねばならなかったりすることがあるのでは。人と違う意見を持ちなさい、と教育される国もあるが、日本では未だに、「大勢の一人でいなさい、目立ってはいけない」という教育がなされる。そんな精神を叩き込まれると、大人になっても、こうしたらどう思われるだろう、これは世間体がよくない、などと無意識に事前計算してしまう。これは生まれ育った環境から考えて当然の結果で、自分を守るための最も合理的な判断なのだ。だけど、こう思われるだろうという予測で、他人を喜ばせる(あるいは他人に批判されない)ことはあっても、それは自分にとって本当にいいことだろうか。

大学生でも高校生でも、その無意識的な自分の意識に気づかなければならない。就職や進学や人生の選択などを、人がどう思うかなんていう指針で決めたら、あとで後悔する。人の価値観は自分の価値観とちがうからだ。誰かが良いという会社でも、その人が良いと思う内容を自分も良いと思われなければ、それは自分にとって良い会社ではない。
結局自分のことは自分にしか分からないし、自分が何を求め、何によって満足するかは自分が決めるものだ。そしてそれは、人に理解され、共感されなくても良い。

仕事の満足度ややりがいについて、あれこれ悶々とできるだけ、豊かな時代になったのだろう。本来なら仕事は自分の労働力の対価としてお金をもらい、生活していくための術なのだ。それは今でも変わらない。しかし今は、仕事に付加価値がつく時代になった。「あなたが仕事から得ているものがお金だけなら、その対価は低すぎます。」という言葉もある。だから、賃金以上に、「やりがい」というものを求めるようになったのだと筆者は言う。

賃金のように数字で分かる物なら比べようもあるが、「やりがい」を測定する物差しがあるわけではないので、やはり「やりがい」の評価は主観に頼る。そこで自分の価値観が揺らいでいて他人の価値観を借りてしまうようなことがあれば、自分が「やりがい」をもって働けているのか、この仕事は自分に合っているのか、ここよりも良いところがあるのではないか、などと思い悩んでしまうのだろう。その気持ちは、分からなくもない。しかし、他人が本当はどういう気持ちでいるかなんて、その人本人しか分からない。やりがいがある、と言っていたのに次に会ったら辞めていたなんて話もあるし、人は、こうであってほしいという願望を込めて自分の近況を語りたがるようなのだ。

この本では「他人に褒めてもらっていたのは、自分が子供だったからだ。今はもう大人なのだから、自分のことは自分で褒めよう」とある。自分が満足ならいいんだ、と思える人は今の日本社会、なかなか少ないのではないか。

ただ仕事から得られるものは何もボーナスや有給や表彰だけではない。仕事から何かを学んだりとか、改善して自分の経験になったりする。それも立派な対価で、今後のキャリアに役立つという意味では、より高価値な対価である。姿勢も大事かな。

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